グレーゾーンへ(38) 社会は逸脱者を必要とする① ニート論まとめ

もし<純粋な社会>が樹立されたとしたら、人間はどんなことをしてでも、「異人」を捏造することだろう。「異人」は我々の外部にいるのではない。「異人」は人間生活にとって不可欠な存在なのである。(小坂井 敏晶『民族という虚構』より)

 反ニート論や階級論など色々な方向に議論が飛んでいたので、話を元に戻そう。今回の文章はニート論のまとめであるとともに、次回からの開始する考察への導入となっている。


 社会は逸脱者を必要とする

 これが議論の出発点である。犯罪者であれ、アンダークラスであれ、ニートであれ、発達障害者であれ、社会によって逸脱者とされた人々は社会にとって望ましくない存在として、否定的に語られる。それが政策化すれば、
時に撲滅運動及び治療の対象者とさえなるだろう。

 しかし、そうした政策的な取り組み及び言説とは裏腹に、社会はむしろ逸脱者を必要としている。もちろん、最初に述べたように逸脱者が発現しない社会には変化と創造は起こらないという次元での必要性もある。しかし、
それとは逆の意味で、逸脱者はなくてはならない存在なのだ。

 社会の中で声高に非難の対象とされているのに、必要とされるとはどういうことなのか。意外に思われる読者もいるかもしれない。しかし、その理由はデュルケーム及びその影響を受けた社会学者、人類学者たちの見解によってある程度明らかにできる。彼らの考えによれば、いかなる社会も人々の不安、傷つき、怒りを鎮めるための破壊すべき想像上のシンボルを必要とする。この役割を社会の内部で担う者こそが、社会によって作り出された逸脱者なのである。

 近代以前ならば、戦争、自然災害、失政の元凶とされた支配者(王殺しや革命、独裁者)、妖術師(魔女も含む)、動物(動物裁判)、物が破壊すべき想像上のシンボルに選ばれ、公衆の面前で裁かれ、破壊された。近代刑法が成立してからは、犯罪及び事故の責任者と目された人物だけを破壊すべき想像上のシンボルに選ぶことが認められ、公開裁判と処罰の対象となった。さらに現代に近づくと、裁判も処罰も広くは公開されなくなり、処罰は密室で行なわれる傾向が強まったが、犯罪者が破壊すべき想像上のシンボルとして社会において不可欠な役割を果たしていることには変わりがない。

 しかし、現代の傾向としては既存の処罰のみで犯罪者を破壊するだけでは、集合意識を鎮めることは難しくなった。そのために社会が取った2つの戦略が、犯罪の厳罰化と新たな逸脱者の創造であった。21世紀以降の日本における新たな逸脱者の創造について考察する上で重要な材料を提供してくれるのが、ニート状態にある若者と、医学的に発達障害と診断可能な人々であった。前者は①キャリアからの逸脱者(学校→労働などその社会で通常とされるライフコースからの逸脱者)であり、後者は②社会の内部で野放しになったとされる障害者である。①②の逸脱者は社会において好ましくない存在とされるが、犯罪者のように監禁及び隔離の対象とはならない。しかし、社会の内部で非難及び再教育の対象となることによって、社会不安を鎮めるのに大きな役割を果たすことになるだろう。


 今回テーマとして扱ってきたニートは、不登校、ひきこもりと同様、①キャリアからの逸脱者に属している。誤解がないように付け加えておけば、、ニート支援に関わる人々は自らが支援しようとした若者たちを社会不安を鎮めるための道具にするために、ニート概念を作り上げた訳ではないだろう。それが妥当であるか否かは別にして、支援者たちはあくまで様々な事情から労働市場の埒外に置かれた若者を支援する目的で、ニート概念を作り上げている。

 しかし、支援者の思惑とは関係なく、社会は社会不安を鎮めるための破壊すべき想像上のシンボルを必要としている。社会がニート概念を受容したのは、支援をするためではなく、アメリカの政治的右派によって創造されたような破壊すべき想像上のシンボルを欲したためであった。ニート概念は政治的右派のアンダークラス概念と結びつき<好ましくないライフスタイルを自発的に選んだ若者><社会的責務を遂行せず、犯罪との親和性の高い若者>として、社会の内部で流布していった。

 ここまでが、前々回までの考察から言えることだが、ここから先は、なぜ社会は破壊すべき想像上のシンボルとなる逸脱者を必要としたのかをさらに遡って考えていこう。わたしが現時点で持っている仮説は、キャリアからの逸脱者は、社会が自明視する教育、労働、ライフコースのあり方、価値感を是認・維持・強化するために不可欠な役割を負っているのではないかというものである。

 例えば、不就学児が多数いる社会では、不登校は問題にはならない。不登校が問題となるのは、どういう形であれ、国民皆教育が実現した社会においてのみである。国民皆教育が実現した社会では、不登校児は問題にされるが、問題にされるのはその社会において子どもが学校に通うことが自明視されているからである。すると、不登校児の問題化は必ずしも本人のためだけに行なわれる訳ではない。不登校児を問題化することによって、
学校制度に基づく教育を自明の前提とし、既存の学校制度を是認、維持、強化する役割を果たすのである。

 ひきこもりの場合は必ずしも教育や労働のような義務とは結びついていないが、そこにも当然のことながら社会が自明の前提とする望ましい人間関係のあり方が深く関与している。自明とする望ましい人間関係のあり方に問題があったからこそ、ひきこもりは発生したのかもしれないのだが、ひきこもり状態にある若者が問題化される場合にはそのような発想は生まれない。望ましいとされる人間関係のあり方にひきこもり状態にある若者が参入することにその目標が置かれることになるだろう。

 そして、ニートについては言うまでもないだろう。人は教育課程を終了すれば働くのは当然という価値観を自明の前提とし、他の人々をも労働参加に縛りつける役割を果たしている。

 その社会が自明の前提としている教育、労働、キャリアのあり方を維持するためには、単にキャリアからの逸脱者を支援し、その実態を社会に発信していくだけでは不十分である。キャリアからの逸脱者たちのネガティヴかつ悲惨なイメージを執拗に垂れ流すネガティヴ・キャンペーンという作業が不可欠になる。善悪の問題を抜きにすれば、支援者のみの間で流通している概念を社会に広く普及させるためには、ネガティヴ・キャンペーンは、正攻法なキャンペーンよりも絶大な効果を発揮する。日本ではまだ流行の気配は見られないが、アメリカ合衆国政治的右派のアンダークラス論はまさにネガティヴ・キャンペーンのための道具である。アンダークラスと位置づけられた人々を支援するというよりは、それ以外の人々に「社会が自明視するキャリアを生きろ」というメッセージを与え続けることが重要な役割なのである。

 そして、ネガティヴ・キャンペーンを通じて、人々はキャリアからの逸脱者たちのあり方が好ましくないこと、その社会で通常とされるキャリア(教育参加→労働参加→自立)という途を歩んでいくことが望ましいあり方であることを刷り込まれていくことになるだろう。あるいは子どもを持つ親は、自らの子どもたちがキャリアからの逸脱者にならないように教育していくことが最善の道であると刷り込まれていくことになるだろう。

 人々にキャリアからの逸脱者たちは自らとは異なる好ましくない生き方を自発的に選び取ってしまった他者であると認識させること(他者化することによって、人々は下には下がいることを知って安心する)。教育課程や労働市場における敗北者たちに対してさらなる転落及び堕落の不安を煽り立てること。あるいは競争における敗者の不満を圧殺すること。子どもを育てる親たちの不安を煽り立て、さらなる教育に駆り立てること。すでにキャリアから逸脱した者、逸脱しかけている者をより劣悪な条件であってもキャリアに引き戻すこと。支援プログラムを開発することによって、キャリアからの逸脱に不安を感じるようになった人々の不安を鎮めること。なぜ、社会が自明視するキャリアに従って生きていかなければならないのかという問いを圧殺すること。。。

 一見すると、アンダークラス概念やその影響を受けたニート概念には様々な目的が詰め込まれている。しかし、すべては社会が自明視する既存のキャリアのあり方、キャリアに対する価値観を維持するベクトルに向かっていることが分かる。日本においてこの役割を全て背負うことになったのが、社会に普及した俗流ニート論であり、そのための破壊すべき想像上のシンボルに祭り上げられたのがニート状態にあるとされた若者であった。

 今後も、社会のあり方を肯定、維持、強化するために、様々なタイプの逸脱者が作り出され、破壊すべき想像上のシンボルに祭り上げられていくことになるだろう。しかし、新たな逸脱者が作り出された時に、わたしたちが注目しなければならないのは

①社会がどのような規範、あるいは価値観に執着するようになりつつあるのか
②社会が何を問題化するようになっているのか
③逸脱者を作り出すことによって、社会は人々のどのような不安あるいは不満を鎮めようとしているのか
④逸脱者を作り出すことによって、社会は自らのどのようなあり方、価値観を維持しようとしているのか

といった点なのである。

 ニートに関する議論はここまでにしよう。次回からは、逸脱の社会学から見て、発達障害とはどのような社会的役割を果たしているのかを明らかにしていこう。このブログで発達障害をテーマにするのはずいぶん久しぶりな気がする。

この記事へのコメント

2012年04月15日 01:25
過去から連綿と続く部落差別なども、社会構成員を分裂させる好例ですね。支配層=富裕層にとっては格好のカモフラージュと出来ますから。
こうもり
2012年04月15日 09:03
山路さん

お久しぶりです。近年、社会政策分野では社会的排除という言葉が頻繁に登場するのですが、逸脱者に関する様々な事例を追いかけていくと、排除(社会からの締め出し)という言葉ではうまく説明できない事例によく遭遇します。

学校、職場でいじめを受けやすい人々、パートナーからDVを受けやすい人、虐待を受けやすい人などは、確かに過酷な参加状況に陥っているが、その集団、空間から追い出すために迫害されている訳ではありません。むしろ、憂さ晴らし、見せしめの道具として、その集団から必要とされている節すらあります。少なくとも締め出しではないんですよね。

この参加状況をうまく説明する言葉がないものか。。。今は内部型排除という言葉を使っているが、もう少し実態に即した言葉がないものか。

ちなみに士農工商、穢多、非人のような身分秩序も、本来の意味は儒教世界で正業とされた軍事、農業以外の職業に人々が流出するのを防ぐ目的で作られたと言われています。流出を防ぐために取った戦略が、軍事、農業以外の生業を営む人々を賎業民として低いカーストに置き、否定的に語り差別的な取り扱いを行なうこと。その名残が被差別部落なんだと思います。
ぶじこれきにん
2012年04月15日 19:32
今日記憶力のいい発達障がいの人のドラマがオンエアーされる。いつも思う事だが、”発達障がい”という逸脱者がドラマのネタとして見世物にされて、発達障がいの人という逸脱者がいるから、非正規、正規雇用の過酷さに苦しむ視聴者に”俺より下の人がいる”という安全弁を用意して、ある種のガス抜きにもなる。発達障がいドラマは医療モデルの視点から作られたドラマでしかない。
 それだから発達障がいの生きにくさが理解されて社会が私たちに歩み寄る事は決してない。
 私たちを理解する立場の支援者が地域でトラブルを私が犯したら、中元・歳暮を贈るというごますりを平気でする。地域に理解を求めることすらしない。怠っている。
ぶじこれきにん
2012年04月15日 19:42
むしろこうもり氏が述べた”逸脱者を排除する世間=地域社会に媚を売る”行為を平気でする。この際だから言わせていただくが、成年後見団体は「困ったとき助けてを言ってください。」とバカの一つ覚えに言うが、16万円の年金でやりくり大変な時にお金の支援をして私の生活を助ける支援はしない。自分たちの都合優先、いざとなると、お金の支援という本当に困った支援をしない。そういう彼女たちに”労働システムから逸脱”して人に承認されない、私の思いに気付かない。就労支援会社の支援を受ける枠組みに戻ると、上から目線で物を平気で言う。逸脱者人生をあるADHDの発達障がいの女性のブログに書くと、女性管理人はコメントは載せるが逸脱者の自分の生き方を人と変わった生き方をする人としか見ない。逸脱者としてのニート人生の苦しみ、悩みを当事者として共感しない。その女性は17年間労働システムにいた人だから、逸脱者人生を歩む私の気持ちが理解できない。こうもりさんが本で論じた”当事者は、他の当事者を理解できない”テーゼを地で行く感じです。
ぶじこれきにん
2012年04月15日 19:51
こうもりさんの論じる逸脱者バッシングする社会の側は自分より下がいるとみて逸脱者叩きをして、従来のシステムへの同化を大衆に促す。それで社会は維持されるだろう、叩かれる側は、周りから逸脱者人生をして認められない思いで苦しむ。悩む。ニートを叩く側、ニートがいて現状の同化をしてなだめる側はそんなニート当事者の思いに気付かない。こうもりさんのブログは、ニートの目線に立ち、優しく暖かい。ニートバッシングする側、現状を追認する側に厳しい。こうもりさんの優しさはニートの側に対する想像力と優しさがある。いい人だ。久しぶりの発達障がい論期待しています。支援自慢、支援機関の支援自慢する支援者の傲慢さを厳しく批判してほしい。あれくらい嫌な物はない。発達障がいの当事者は、支援者及び支援機関の支援自慢の為に生きている訳じゃない!!
ぶじこれきにん
2012年04月15日 20:00
大体あるベテラン支援者は自閉症は純粋だとその魅力を礼賛するが、純粋でピュアという事はおれおれ詐欺師にも騙されるお人よしだという事だ。だまされるお人よしで許されるのは自閉症の人の感覚的感性で書くアートの世界だけ。国家という詐欺師にマインドコントロールされる。あるグループホームの女性住人は電気が余っている事実を知らずに東電や、政府が言う節電を信じている。家庭用電器の節電は微々たるものなのに…純粋礼賛の裏に、騙されるお人よしあり。国家、企業のカモになる純粋自閉症当事者礼賛は誤った自閉症像を人々に植え付けるので危険だと私は思う。
ぶじこれきにん
2012年04月16日 18:48
こうもりさん、自助グループ・当事者活動をしておられる。私の怒りを聴いてください。
 あるADHD当事者が主体の発達障がい啓蒙団体のスタッフになりたいとメールで希望出したら、今日断わりのメールが来ました。
 理由、臨機応変な対応ができない。人の気持ちがわからない。体そうです。相手の気持ちがわからないアスペルガー・自閉系の啓蒙はしない。理解はしない。ADHDだけ理解してほしい。わかってもらいたい。という団体です。最も難しいアスペルガー・自閉系に無理解な団体に未来がない。組織の論理で考えている。一般企業のルールになじんで、一般企業のコミニュケーション目線で自閉・アスペルガーを見る。理解しない。そういう団体に発達障がいの理解はできない。こうもり氏のような優しい目線もない。想像力もない。怒りの思いをこのブログに書いています。
こうもり
2012年04月17日 08:58
ぶじこれきにんさん

①発達障害支援について

 発達障害という概念自体が学校、職場の中で当たり前とされる秩序を侵犯する者というニュアンスを含んでいるため、その支援は秩序を維持する方向に進んでいかざるを得ない側面があります。例えば、学級の秩序を侵犯しないように適応指導するか、別の学級に移すかといった具合に。。。

②当事者の自助グループについて

その団体がどこなのか分かりませんし、団体について言及することはこのブログではできないのですが、民族、障害などのアイデンティティーを拠り所にした活動の難しさを感じます。集団同一性を拠り所にせざるを得ないため、自らが味方あるいは仲間と見なした者のためだけの活動に陥りがちです。





ぶじこれきにん
2012年04月17日 19:00
こうもり様、丁寧な助言ありがとうございます。①はそうならざる負えないか、枠組みに入らないとバッシングする癖に枠組みに入ると無関心になる。われ関せずになる。支援される側が、支援する側に不信感を持つことを向こうは「ずれがある。」というだけで、ずれを埋める努力をしない。②は集団同一性だとそうならざる負えない。極端な例、ナチスに排斥されたユダヤ人が、パレスチナの地に来ると、そこに定住してきたパレスチナ人を排斥すると言う民族問題にありがちな、被害者が加害者になるオセロゲームの構造の障がい者版ですね。なるほど…・そういう訳か・・・・。
こうもり
2012年04月22日 19:22
ぶじこれきにんさん

人間を<我々>の側に属する人々と<彼ら>に分け、<我々>に集団同一性を求めるというのが、民族運動の原点でした。こうして作られた<我々>は<彼ら>に対してどのような行動を取るのか?悪い方向に進めば、それは民族迫害、隔離政策に帰結します。
ぶじこれきにん
2012年04月23日 22:04
<こうして作られた<我々>は<彼ら>に対してどのような行動を取るのか?悪い方向に進めば、それは民族迫害、隔離政策に帰結します。
 民族問題に関心ある私の見方はこうだ。民族ナショナリズムで国家を作り政府を作れば異民族を抑圧する。始末の悪い事に宗教で同一化すれば、異民族、異宗教を抑圧するイデオロギーになる。
 ボスニア・ヘルッェゴビナの民族浄化。日本の北朝鮮叩き=朝鮮総連バッシング・アフリカの部族抗争ときりがない。民族が独立して異民族叩きも後を絶たない。本筋に戻ると障がいで悩み、思いを共有すると他の障がいを抑圧、排除する構造。理解しない構造も同じ。精神障がいが、発達障がいを理解しない。ADHDが、アスペルガーを理解しない構造も同じだろう。民族問題と、障がい者問題の根っこは同じなのかもしれない。双方が”人”である限り排他的になる。
akisibu
2012年04月27日 11:21
勝手な思考垂れ流し、失礼します。
発達障害者は枠組みに適応しない場合、低いカーストの構成員として所属する社会集団の秩序維持のための見せしめとして機能しうるが、発達の特性を生かし社会的経済的成功をし有名になるなどしてカーストの上位に食い込む可能性も併せ持つ。
が、自分が経済的に成功するロールモデルを演じることで現状の社会のあり方を強化してしまうことにつながり、生きづらくなる(犠牲になる)者が出てくることを考えてしまう。逸脱者として生きづらさを感じる経験があるゆえに。
敢えて経済的に成功しない方向で徹底すると、扶養してもらうことで家族を疲弊させ、家族が無理ってなれば障害年金暮らしのニートかブラック企業でハードワークのワーキングプアやって体も心も壊れて生活保護(たぶん再起不能)で国家を疲弊させる方向になる。余裕がなくなれば、人間なんてたいがいは生き残るためになりふり構ってられなくて他人を犠牲にするもんだし、組織とて同様だ、追い込まれたらとかげのしっぽ切りで、見棄てる。
知らずに誰かを犠牲にしてのうのうと生き延びるのもわけもわからないうちに犠牲になるのも嫌なのだが。
現状のカーストとは別の原理の系をつくる選択肢を用意して、今のカーストの系からいなくなっちゃうという手もいいんじゃないか、と思う。今のカーストのてっぺんにのぼりつめてルールを変えるのも考えられるが、時間がかかるのと序列のてっぺんがどういう立場なのか今の社会だとわかりにくいし、ルールを変えることでまた犠牲になる人が出るだろうなと。誰も不条理に犠牲にされないようなシステムの社会実験はやってみないとわからない。で、やっぱ、いなくなっちゃえ、と。ハーメルンの笛吹男みたいなノリで。現状のカーストの系とは絶対的な断絶が横たわる、平行世界モノのファンタジーみたいだけど。
こうもり
2012年04月29日 10:10
akisibuさん

コメントありがとうございます。現在、学校を賑わせているスクール・カーストの問題ともつながってきそうですね。

学校に限らず、暗黙のカースト問題について、自らが高位カーストを目指す、仮に低位であっても、自らのポジションにふさわしい立ち振る舞いをすることによって集団に適応するという方法に問題があるのは事実です。これらの方法はどちらかと言えば暗黙のカーストをその集団の秩序として維持する機能を持っており、むしろ多くの犠牲者を生産します。さらに教育社会学者本田由紀が神奈川県で行なった調査によれば、カーストの低位、あるいは「いじられ役」の任務を全うしている者は確かに学級の中で浮き上がることなくやり過ごすことができるが、自己評価、未来への展望が極めて低い状態に置かれている傾向が強いことが明らかになっています。

別の系を作り出すとすれば

学校も職場も固定的な集団とせず、入りやすく抜け出しやすいものにするというところになるでしょう。その上で、集団を抜け出しても生活はしていける生活保障制度と孤立化しないための居場所作りが重要なのかな、と。
2012年05月12日 11:36
社会人2年目、まだ非常勤ですが今年私はかつてない大きな役割ー要支援担当ーとして現在学童でダウン症の1年生のお世話に当たってます。
本人と同じ1年生の子供たちはある程度ダウン症に理解はあるものの、上級生の2・3年生は差別的な目で本人を見ています。現在3年生でダウン症を持つ男児が結構荒れていた子で、結構虐めがあったので同じような目線で1年生の子を見ている・・・そういう子たちには理解を得るのは難しいです
1年生の子はしっかりとしつけられたので、重度ですが食事、トイレ、片付けは自立でできます。もっと良い目で上級生たちは障害児を見ることは出来ないのか・・・?
こうもり
2012年05月14日 10:20
CC SAKURAさん

レス遅れました。

ダウン症の子ですか。比較的外見からインペアメントが分かるタイプの子ですね。

ある意味、普通学級のあり方が問われている事態かもしれません。確かに普通学級で困難のある子を特別支援学級に移していくのは簡単です。しかし、そのような形で浄化された障害児のいない普通学級で当たり前のように過ごしてきた子どもたちは、関わっていけるのか。。。

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