グレーゾーンへ(18) 学級の呪縛③ 内藤朝雄の学級廃止論【後 編】

(ちょっとだけ微修正してみました)

 コメントを書いているうちに、ふと脳性まひ団体「青い芝の会」の故横塚晃一の『鶏にみる「弱者考」』の1節を思い出してしまった。故横塚は若いころに養鶏をしていたことがあったが、その時に鶏の面白い習性を発見したと言う。

 それは例えば十羽の鶏を一つの囲いの中で飼っていたとする。すると必ずそのうちの一羽が、他の皆に、よってたかっていじめられるのである。皆にこづかれる。とさかにはいつも血がにじみ頭や首の毛はむしりとられている。いつも他の者の動きに気を配りながら、すきをみては餌や水をとるのであるが、それも他の者が満腹して餌箱を離れてからでないと餌箱にとりつくことはできないのである。そんなわけでこの一羽の鶏は、大抵、障害者いや障害鶏であったがやせこけて卵を産まないし、肉にもならない。
 しかし、この何の利益も生まないごくつぶしが実は重要な役割を演じているのだということに気がついたのは養鶏をはじめてから大分たってからだった。
 もし、仮に利益を生まないからといって、また皆にこづかれるのがかわいそうだからという理由で、その一羽をその群から切り離した場合、残りの九羽の中から必ずまた一羽がのけものとしての任務を負わされるのである。(中略)
 これは餌の量や質、また管理のよしあしにもよるが、極端なことを除けば、あまり変わりがないのである。だから、できるだけ多くの卵を産ませ、より高い利益をあげることを願う養鶏家にすれば、十羽のうち一羽を適当に保護しながらみそっかすとしての任務をできるだけ長く全うさせなければならない。いやむしろ時によればみそっかすを作り出すことさえ必要なのである。
 (『母よ!殺すな』2007年 生活書院再刊)

 複数の鶏を同じ小屋の中で飼育すると、必ず集団の中にいじめの標的とされる鶏「みそっかす」が生み出され、「みそっかす」を別の場所に移しても、別の標的が作り出される。横塚はこれを生物の避けられぬ習性と考え、養鶏場の出来事を人間社会の縮図として捉えている。

 もちろん、そういう側面があるのは否定しない。しかし、わたしはこれを鶏の避けがたい習性というより、養鶏場という環境下で発生する行動パターンなのだと考えたい。養鶏場に閉じこめられた鶏には仲間を選ぶという選択肢も不快な相手から遠ざかるという選択肢も与えられていない。常に相手と距離を置けない環境に閉じ込められ、集団の関係は固定化してしまっている。このような環境では人間に限らず、他の生物の世界でもいじめは発生しやすくなるのではないだろうか。少なくとも、内藤朝雄は「いじめ」の要因をそのように捉えているように思える。

 さらに人間社会の場合、閉ざされた空間の中で共通の価値感に従って行動し、仲良くすることが強要されるというおまけさえつくことがある。入所施設,学校,職場,家庭などがその典型例であり、これらの空間はいじめ,ハラスメント,虐待,DVといった暴力が最も発生しやすい空間となっている。そして、普通学級で「みそっかす」として標的にされやすい集団の1つが知的障害,発達障害などの診断がつく目に見えない障害者たちということになるだろう。

 大人になってから診断された発達障害者,知的障害者は多くの場合普通学級に通っていたが、そのことがよかったと述べている人は恐ろしいほど少ない。これは普通学級か、特別支援学級かという理念上の対立を度外視しても
やはりそうだと言わざるを得ない。しかし、それはある意味では当然のことではないだろうか。「みそっかす」として標的にされた鶏が「それでも鶏小屋の一員になれてよかった」と思うはずもない。

 しかし、やはり「だから特別支援学級に」ということにもならないだろう。普通学級も特別支援学級も親密さを強要され、関係が固定化し距離が取りにくい閉ざされた環境である以上、いじめが発生しやすい環境と言えるからである。よく、特別支援学級に通っている発達障害と診断された子どもが知的障害と診断された子どもをいじめてしまうという話を聞くが、これもある意味では当然と言えるだろう。それによって発達障害と診断された子どもはいじめの標的にはされなくなるかもしれないが、特別支援学級においては別の標的が生み出されるだけである。普通学級も特別支援学級も「養鶏場」である以上、標的は必ず作り出されざるを得ない。

 親密さを強要され関係が固定化し距離が取りにくい閉ざされた空間がいじめや暴力の発生源になりやすいのであれば、その解決策は親密さを強要されず、関係が固定化されず、合わない相手とは距離が置きやすい環境が必要となるはずである。つまり、人間関係の流動化こそが必要となるはずである。そのため、内藤朝雄が唱えたのが学級制度廃止論であった。

 彼の学級制度廃止論を紹介する前に、彼の理論の前提となる社会の理想像を見ていこう。リベラリズムを自認する彼の理論の根底にあるのは自由な社会である。これは彼の以下のような言葉によって表現される。


すべての人にとって望ましい一種類の生のスタイルやきずなは存在しない。(中略)共通の望ましい生き方を無理強いされることなく、それぞれにとって望ましい生のスタイルときずなを生きることができる社会状態が、望ましい社会状態である(P262-263、『いじめの社会理論 その生態的秩序の生成と解体』 2001年柏書房)

 しかし、彼の自由な社会構想の中でも1つだけ政治的に強制されなければならないものがある。

 自由な社会で強制されるのは、なじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけである。「存在を許す」というのは、攻撃しないという意味であって、「なかよくする」のとは違う。むしろ「なかよく」しない権利が保障されるからこそ、「存在を許す」ことが可能になる。
 自由な社会では、攻撃することは許されないが、嫌悪を感じる者との間に距離をとる権利(あるいは生々しいつきあいを拒絶する権利)が保障される。
(P265、前掲書)

 多様な生のあり方が尊重され、仲良くを強制されることなく、共存できる社会。これこそが内藤朝雄の考える社会構想ということになるだろう。当然、この前提から考えると、共通善が存在し、仲良くを強制される学級制度の存在は耐え難いことであり、自由な社会を損なうものでしかなかった。そこで内藤は、義務教育の役割を大きく限定した独自の教育構想を展開していく。

この構想では、義務教育の義務は以下の3つに限定される。

①日本社会で生活していくのに必要最低限の知識を習得しているかどうかをチェックする国家試験を受けさせる保護者の義務

②国家試験を落ち続けた場合には、後述の教育チケットを消化させる保護者の義務

③国が国家試験を行い、またさまざまな学習サポート団体や教材を利用するためのチケットを国や地方公共団体が
配る義務


 まず、①で言う必要最低限の知識とは(a)生活の基盤を維持するのに必要な日本語、(b)お金をつかって生活するのに必要な算数、(c)身を保つために必要な法律と公的機関の利用法、とされる。

 現行の学校制度ではこれらの知識を学ばせることはあっても、十分習得しないまま学校を卒業していくことが認められている。社会も未履修であることには不寛容だが、未修得であることには極めて寛容である。それに対して、内藤は国家試験を合格した人しか自動車を運転してはならないのと同じように、未修得であることを認めるべきではないと考える。従って、義務教育の義務は学校に通わせることではなく、社会生活を営むために必要な知識を必ず身につけさせ、試験を通過することになる。

 自動車教習所を例にしながら考えていくと、内藤の議論は分かりやすい。自動車免許の試験を行なうのは行政機関だが、運転に必要な知識と技術は民間の自動車教習所によって教授される。市民はいずれの自動車教習所を利用して学んでも構わないが、国家試験は必ず受けて合格することができなければ自動車を運転することは許されない。それと同じように、社会で生きるために必要最低限の知識は必ず習得させなければならないと考えたのである。

 もちろん、国家試験対策だけで十分な教育が行なえる訳ではない。内藤が子どもに学ばせるものとして挙げているのは学習系(学をつけるための学問系と手に職をつけるための技能習得系)と豊穣な生の享受系に分割する。学習系は分かりやすいと思うが、豊穣な生の享受系は少し分かりにくい。内藤によれば、豊穣な生の享受系とは、「自由な<遊動-着床>の積み重ねによる、レディメイドの自己形成ときずな育成を支援するもの」とされる。具体的には政府,地方行政機関が市民に時間と機会を提供することによって、市民クラブが林立するような状況を作り出し、子どもたちが自らが魅力を感じる市民クラブを自由に出入りすることによって、自らに必要な体験と関係を作っていくことである。理由も分からず集められた子どもたちを強制的に学校に閉じこめ仲良くすることを強要するのではなく、自分の居場所や人間関係は自分で選び作っていくという方向が望ましいと考えたのである。

 内藤が試験を行なう者と教育を行なう者を分けた方がよいと考えた理由は、教育者による恣意的な評価を避ける目的があったからである。現行のように教員が勉強を教え、評価を行なう仕組みでは、教員あるいは学校に気に入られるような言動をした者が有利になることが往々にして起こりうる。内藤からすれば、それは精神的売春でしかなかったのである。

 もちろん、民間の教育機関は高額であるため、低所得層の子どもに不利が生じるということはあるだろう。そこで、内藤は国や地方公共団体が民間の教育機関を利用するための無料教育チケットを配布することを提案する。チケットは義務教育用と権利教育用の2種類があり、義務教育用は子どもが国家試験に受かるまで全ての人に無制限に配布される。権利教育用チケットは低所得層の子どもほど多く配布され、家庭の経済的事情によって教育上の不利が生じることを防ぐことができるとされる。

 まとめると学習保障や居場所作りは民間の教育機関,市民クラブに委ね、政府,地方公共団体は国家試験の実施と学習保障,教育機関や市民クラブを作るための基盤作りのみを行なうというのが、内藤の教育構想の特徴と言えるだろう。子どもは自らが学ぶ教育機関や市民クラブを自由に選び、どのような学び方をしてもよく、現行の学校制度よりは人間関係は流動的となるだろう。

 もちろん、この構想が実現されたことはないので、今の段階でこの方法でよいと言うのは危険である。しかし、学級の中で「みそっかす」の鶏(いじめの標的)の役割を背負わされることの多いグレーゾーンの子どもたちのことを考えると、やはり無視することのできない議論であることは間違いない。最初に紹介した森口奈緒美が求めた徹底的な「学習保障」というニーズもこの方法ならば実現できそうである。

 もちろん、無批判に導入に賛成できない部分があるのも事実である。例えば、

①保護者が恣意的に子どもの意向を無視して教育機関を選んでしまう場合はどうすればよいか

②教育チケットの導入により、経済的な不利は解消されるかもしれないが、文化資本や社会関係資本の不利を埋め合わせることができるのか

③学習障害,知的障害と診断される子どもが習得困難のため、なかなか国家試験をパスできない場合はどうすればよいのか

④民間の教育機関で国家試験合格のような実績を残しにくい子どもたち,扱いにくいとされる子どもたちが門前払いされたり、お荷物扱いされることはないのか

⑤教育を民間委託する場合、障害のある子ども,何らかの不適応を起こした子どもの受け皿になる教育機関にはより多くの予算や人員配置を認めるといった行政機関側の対応は期待できるのか(民間委託はよく政府の予算削減のために行なわれることがある)

といったことは、導入される前から指摘することができる問題ではある。①②については、そもそも公教育が生まれ(家庭)による不利や不条理をできる限り減らすことを目的に導入された部分があることを忘れてはならないだろう。③は学習そのものが障壁となる子どもをどうするのかという論点である、④⑤は民間委託化の負の側面を見落としてはならないという視点であると考えてくれればよい。

 わたし自身は、識字率が低い社会では内藤の教育構想は実現不可能だと思うが、現在のように教員のペーパー免許を持つ程度の高学歴者が多い社会ならば、実現の可能性があると思う。今でも開発途上国では無償の公教育を推進することは急務となっているが、ある程度人的資源を揃えられる国ならば学校という箱物にこだわる必要もないのである。現代の公教育論の祖であるコンドルセも新しい市民社会が実現した暁には、公教育は発展的に解消されるべきだと述べていた。少なくとも、実現可能性について言えば、内藤の構想は不可能とは言えない。

 また、内藤の構想は「普通学級か、特別支援学級か」という議論とは大きく対立するが、インクルージョン教育とは必ずしも対立はしない。インクルージョン教育があくまで過程であり、そこにいる子どもたちに応じて変わっていくものだとするならば、「学級なき教育」「ありとあらゆる教育の選択肢の提供」というのも当然その中に含まれてくるはずだからである。

 どうなるかは分からない。しかし、やってみる価値はあるというのが、わたしの内藤構想に対する評価である。まずは手始めに公立小中学校で希望者を対象に実施してみてはどうだろうか。つまり、国家試験を受けることを条件に小中学校への参加義務を免除し、教育チケットを渡して自らが選んだ教育機関で学んだ場合、どのような結果が起こるのかを実際に検証してみるのである。その上で今後の教育の方向性を考えてみてもよいのではないだろうか。

(次回は子ども・女性問題のまとめ)

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この記事へのコメント

ぶじこれきにん
2010年10月13日 14:13
学校の学級制度の廃止。閉鎖的空間、施設・職場・学校・家庭がある限り、暴力といじめはなくならない。いじめは全体のノリを味噌も鳥も子供というだけで一緒にする学校の構造。他と共生する環境がない限り続く。
 内藤氏が教育改革の対案、教育チケット等の提案をするのは、評価できる。格差拡大、私立と公立の格差、在日教育機関はどうするべきか、フリースクールもその中に入るか、こうもり氏が指摘した矛盾点、教育チケット制の問題点などはあるが、内藤氏が矛盾だらけの教育の改革、あるべき提案をしていることは評価できる。
こうもり
2010年10月16日 18:59
彼の唱える民営化論については、貧困問題が論じられるようになってから色々問題が指摘されるようになりました。アメリカの一部では事実上学校民営化とも言えるチャータースクール制を導入したのですが、生徒数に応じて州から予算が与えられるという仕組みのため、教育が学校による予算のぶんどり合戦のような様相を呈しているという指摘もあります。

例えば、公立学校を教習所化して、試験機関とは権限を分ける方法というのはないのかという点も検討される必要はあるでしょう。

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