グレーゾーンへ(17) 学級の呪縛② 内藤朝雄の学級廃止論(前編) 

 カナリアという鳥がいる。常にさえずっているが、メタンや一酸化窒素が発生する炭鉱では鳴き声が止む。そのため人間社会ではしばしば毒ガスを早期発見するための警報として使用されることがあった。毒ガスに対する耐性が弱いと言えばそれまでなのだが、同時に人間より鋭く毒ガスを感知できる鳥でもある。

 グレーゾーンの障害者たちにも似たようなところがある。グレーゾーンの障害者たちは職場,学校,家庭,地域を含めて社会で発生する問題のしわ寄せを受けやすい存在である。統計上は学校におけるいじめ,不登校,非行、若者におけるひきこもり,ニート状態,ワーキング・プア,若年ホームレス、女性のDVや触法障害者の問題にも必ずと言ってよいほど通常よりも多い割合で登場する。

 それを通常の障害者支援科学のように耐性の弱さ,生物的基盤の脆弱性という言葉で切って捨てるのは簡単だろう。しかし、忘れてはならないのは、カナリアが毒ガスに敏感だからと言って毒ガスがなかった訳ではないのと同じで、グレーゾーンの障害者たちが社会問題のしわ寄せを受けやすく敏感だからと言って、その社会問題がなかったという訳ではないという点である。むしろ、グレーゾーンの障害者は社会の問題を敏感に感知し、それを言動に表す「社会のカナリア」のような存在であると言うことができるだろう。

 そういう目で森口奈緒美が学級あるいは学校に対して申し立てた問題提起も読み直してみる必要がある。民主主義社会において子どもの最低限学習保障の砦として創設された学校あるいは学級という制度は、子どもたちを年齢,性別,能力,疾患および障害に応じて振り分け、施設に大規模収容し、教員が学級に集められた生徒たちに対して画一的な劇場型授業を展開することによって成り立っている。その環境は大規模収容施設であるという点で極めて高ストレスで不自然な空間と言えるし、そもそも学習保障という目的自体が達成できているのかどうかさえ明白ではない。学校の教員は授業以上に大規模収容された子どもたちの統制,集団行動への順応に力を入れなければならず、生徒たちはいついじめのターゲットにされたり、孤立させられるか分からない状態になって、同級生との関係に気を回し続けなければならない。見方によってはとても勉強に専念できる環境ではないのである。その中で森口奈緒美は学校という空間が持つ問題のしわ寄せを受け、学校という空間が持つ問題を鋭く感知した「カナリア」であったということができるだろう。

 そのことを踏まえた上で、もう一人の「カナリア」である社会学者内藤朝雄の議論に移ろう。森口奈緒美とほぼ同世代で高校時代に経験した管理教育から高校中退を経験したこの社会学者は、もしかすると本人自身が何らかのグレーゾーンの障害者であったのかもしれない。しかし、今回の議論で言えば、内藤本人がグレーゾーンであったかどうかはそれほど重要な問題ではない。現時点でいえることは内藤が学校の問題を鋭く感知し、表現することのできる「カナリア」であったということだけである。

 通常、内藤のいじめの社会理論は障害者支援や障害者運動の世界で議論されることは滅多にない。だからこそ、
この世界では「普通学級か、特別支援学級か」のような二者択一的な議論しかなかったのである。しかし、普通学級から締め出されることはない代わりに普通学級に放り出されることが多いグレーゾーンの障害者の苦境、学校が抱える問題を矛盾を分析する際には、内藤理論は極めて有効な意義を持つと言えるだろう。わたし自身は内藤理論に全面的に賛成する必要まではないが、グレーゾーンの障害者たちの教育に関する問題を議論する際には、必ず省みられるべき議論だと考えている。以降、内藤の代表作である『いじめの社会理論 その生態学的秩序の生成と解体』(2001年 柏書房)を土台に内藤の議論を紹介しておこう。

 まず、学校でいじめが発生する原因の考察から紹介していこう。内藤によれば、世界の学校は3つのタイプに分類できるとされる。

①学校共同体型…若い人の生活をトータルに囲い込むことを期待されるタイプ
②学校教習所型…もっぱら勉強を教えることを期待されるタイプ
③地域軍団型…学校ではなく地域集団のほうで集団主義的教育をするタイプ

 このうち、③地域軍団型は内藤理論の中ではそれほど検討されていないので、主に①学校共同体型と②学校教習所型の検討を中心に紹介していこう。このうち、内藤が推奨するのは②学校教習所型であり、教科学習保障を重視する森口奈緒美の立場も学校教習所型に近いと言えるだろう。教習所型について内藤は以下のように述べている。

教習所型の場合、基本的に学校は乱暴なことを「やっても大丈夫な居場所」ではない。学校は共同体とはみなされないので、自分たちのムカツキを受け止める容器、あるいは包み込む子宮のような空間とはみなされない。暴れたらあっさり法的に扱われ、学校のメンバーシップもあっさり停止されがちである。(P31、前掲書)

 内藤によればこのような学校では、いじめが発生する余地はあまりないのだが、日本の学校はそうはなっていない。①学校共同体型の突出したタイプなのだという。つまり、学校は自分たちのムカツキを受け止める容器、あるいは包み込む子宮のような空間とみなされてしまうことがあるということである。さらに学校という組織教育的指導の名の元、司法機関の介入に対して拒絶的なところがある。いじめによる生徒の自殺が起こった時に、学校がすぐに「いじめという認識はなかった」と言って関連する教員たちの防衛に走ってしまうこと、場合によっては加害者とされた生徒たちの擁護に回ってしまうのも、その表れだとされる。犯罪に該当するようないじめが発生した場合でも、警察などの司法機関を介入させることに対して忌避的である。
 
 さらに内藤が問題提起するのは、若い人の生活をトータルに囲い込む学校という空間は生物的な次元で生徒たちに「むかつく」「キレる」といったただれた感情を引き起こさせやすいという点である。

こういった「荒れ」というよりも「ただれ」といった方がよい気分は、共同体を無理強いされた者たちのあいだで蔓延する。なぜ一緒にいなければわからない者たちと、心理的な距離をちぢめさせられ、共に響き合う身振りを毎日やらせていると、こういう未分化な憎悪が蔓延する。共同体型の学校では、ネズミと鳩を檻の中でむりやりベタベタさせると通常では考えられないような攻撃性が生じるという、あの過密飼育実験を、わざわざ税金をドブに捨てながらやっているようなものである。(P31、前掲書)

 学校を集団生活を学ぶ場所とみなす論者も、多様な子どもが共生する空間と見なす論者も、この点は見落としている可能性がある。いじめは学校側が子どもたちが同じ学校,教室で仲良くするような指導や配慮を怠ったために、発生するのではない。そうではなく、学校共同体で多様な子どもが仲良くすることを強要された状態に置かれると発生するというのだ。少なくとも、学校や学級という空間では明らかに相性が合わないタイプの子ども同士が物理的,心理的に距離を置くことが難しいというのは事実である。ここでは棲み分けによる共存、あるいは合わない同級生とはお互い干渉せずに暮らしていくという方向が取りにくい。

 内藤の出発点となる学級観は、前述した論者たちとは明らかに異なっている。いじめは生活共同体型の学校にあってはならないことや逸脱現象ではなく、生活共同体型の学校では極めて起こりやすいことと捉えられている。


 内藤の学校でいじめが発生しやすい要因に関する説明は難解なので、ここではできるだけ簡略化して紹介するに留めたい。本当は簡単にしてはならないのだが、簡単に言えば、不快な相手とベタベタする(精神的売春)という否定的経験にさらされた生徒たちは無条件な生の肯定感覚を奪われてしまい、本当は錯覚に過ぎないのだが、全能感を獲得するための行動に出ることになる。しかし、錯覚であっても全能感を手に入れるためには、そのためのシナリオ(全能筋書)が必要となる。内藤によれば全能感を得るためには他者が必要になる

全能筋書は、他者の表情や身振りでもって具現(外的具象とのマッチング)されなければ、錯覚としてすらリアルに体験することができない。全能体験の筋書を体験するためには、他者を巻き込んで、その筋書に見合った一定の振る舞いをさせる必要がある。

 そして、その全能筋書には、他者を思い通りに操作出来た、蹂躙できた、利用できたという「他者の完全なコントロール」という体験が不可欠になる。その筋書は大きく3つに分けられるだろう。

①主人と奴婢…例えば、加害者が被害者を使い走りさせるなど
②破壊神と崩れ落ちる屠物…例えば、ストレートに暴力で相手を痛めつけるなど 
③遊ぶ神と玩具…心理操作系のいじめなど

 いじめを加害者個人の問題としてしまうと、本当に重要な要因を見落としてしまう。むしろ、精神的売春を強要され、子ども同士が距離を置くことができにくい学校、あるいは学級という空間がいじめを誘発してしまうというのが、
内藤の学級観ということになるだろう。この観点は学級や学校参加が障害者の権利保障,参加保障,自己実現につながるという観点からはなかなか出てこない。

 そして、全能を希求する子どもたちは、全能感的ノリに優先順位を置いた倫理秩序に身を置くようになる。

いじめの場に生きる者たちは、容器を共同制作・共同使用する<祝祭>を通じて、集合的に成型された倫理秩序、あるいは特有の「よい」「悪い」を体得しており、それに対して、大人の予想をはるかにうわまわる自信と自負を持っている。(中略)この倫理秩序に従えば、「よい」とは、全能感ノリに、「みんな」の感情連鎖に調子を合わせて存在することである。例えばいじめは「よい」。大勢への同調は「よい」。「わるい」とは、自分たちの共同作業の効果としての全能感ノリを外した、あるいは踏みにじったと感じられ、「みんな」の反感と憎しみの対象となることである。最も「悪い」のは、「チクリ」と個人的な高貴さである。それに比べれば、「結果として人が死んじゃうことぐらいのこと」はそんなに「悪い」ことではない。他人を「自殺に追い込むこと」は、時には拍手喝采に値する「善行」である。個の尊厳や人権といった普遍的ヒューマニズムは「わるい」ことであり、反感と憎しみの対象になる。彼らにとっては、その場その場で共振する「みんな」の全能感ノリを超えた、普遍的理念に従うことや、生の準拠点を持つことは「悪い」ことである。また、「みんな」と同じ感情連鎖にまじわって表情や身振りを生きない者は、「悪い」。 (P95-96、前掲書)

 ここまで精緻な検討はできなかったが、わたし自身はこれを状況倫理という言葉で問題化してみたことがある(『アスペルガー当事者が語る特別支援教育』金子書房)。つまり、規範(誰にとっても正しいと思われるルール)に従って行動する自閉当事者たちが集団の中では浮いてしまうという問題だったのだが、その理由としてその集団の暗黙のルール(状況に応じて変化する)が学校という場を支配しているためではないのか、と考えてみた。この説明は内藤理論に照らしてみると、一部は当たっており、一部は外れていたと言ってよい。

 当たっていたのは、いじめの加害者たちは、全能感ノリという状況によってころころ変化する秩序に従って行動しており、そのノリについていけない子ども,状況をうまく読めない子ども(愚直な子ども、発達障害のある子ども)などはいじめに遭うか、生きにくくなる可能性が高いという部分である。外れていたのは、学校がきちんとした規範を示せば解決をすると思っていた点である。少なくとも、内藤理論によれば学校という特殊な環境がいじめの要因を作っている以上、学校の手に解決を委ねてはならないことになる。もちろん、社会の問題について正解はありはしないのだが、この点についてわたしは内藤理論の方が正しいと思った。

 他人と自由に距離を取ることができず、市民の法が適用されず治外法権の状態に置かれた学級という空間。ここでは生徒間の関係がノリに支配され、ノリに同調できない生徒はいじめの対象となるか孤立という道に進まざるを得ない。このことは多くの発達障害者(特に女性)が「生徒間のノリのよい話題、コミュニケーションについていけなかった」ことともつながってくる。加えて、普通学級に通う発達障害や知的障害の子どもたちにはそれなりに目立つ困難や達成しにくい課題もある。いじめの口実はいくらでも転がっているのである。森口奈緒美のケースでも、いじめは本人の欠点を指摘し、強調するという形で巧妙に行なわれていた。

 再び問題の出発点に戻ろう。普通学級か特別支援学級かという以前に、そもそも学級制度自体があった方がいいのか否かが問われなければならない。この出発点はグレーゾーンの障害者たちの教育を議論する際には不可欠であるし、場合によっては子どもの教育全体にとって重要な観点かもしれない。実際問題として、普通学級,特別支援学級を含めて、学級制度は子どもにとって有効な教育の空間なのか、それとも有害なのかといったことは教育の議論では十分になされているとは言いがたい。むしろ、森口奈緒美に代表されるようなグレーゾーンの障害者たちの体験談を聞く限りは、学級という空間自体が発達障害や知的障害の子どもに大きな負荷を与え、必要もないような不快な経験を与え、学習に専念しにくい環境を作り出してしまっているという可能性も否定できないである。

 そして、学校自身が行なう集団統制,棲み分けのしがたい空間.それによって作り出される生徒間の全能感的ノリは、それにうまく順応できない子どもたち(順応できたとすれば、それはそれで問題なのだが)の「多様な生のあり方」を妨げてしまうことになっていないだろうか。

 解決策として、内藤朝雄は学級制度の廃止を主張している。つまり、徹底した教習所型の教育を構想していることになる。もちろん、これには賛否両論があると思うが、やはり一度検討しておかなければならない構想だとは思う。
次回は内藤朝雄の構想を紹介し、それに対するわたしの考えを述べていきたいと思う。

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この記事へのコメント

こうもり
2010年09月06日 22:09
我ながらちょっと難しい文章を書いてしまったので、ちょっとだけ内藤理論の要約文をつけておきます。(参考文献は内藤朝雄・荻上チキ共著『いじめの直し方』朝日新聞出版)

(1)いじめが起こりやすい環境は以下の4つ
①人間関係を入れ替えにくい状況

②あらかじめ「仲良くする相手」が決められていて、自由に選べない状況

③「広い社会のルール」ではなく「自分たちの掟」「悪いノリ」が認められてしまう状況

④仲が悪くなったり、こじれても、その場から離れられず、「仲良くしろ」と言われる状況

この結果、学校,職場,家庭では人間関係が固定化し距離を置けない状態になりがちで、いじめは起こりやすくなるとされております。ちょうど鶏を鶏小屋で、魚を水槽で飼育すると、他の鶏や魚をつついていたぶり始める奴が出てくるのと同じ原理です。そして、水槽や小屋に閉じ込められた状態では突かれた方が逃げ出すことはできません。
こうもり
2010年09月06日 22:15
だから、鶏の小屋を取っ払ってやったり、魚の水槽を取っ払うことにより、仲間を固定化せずに自由に選べる環境に置いた方が、結果としていじめは減ることになります。路上でいじめが発生しにくいのも、嫌な相手とは距離を取る自由が保障されているから。大学でいじめが発生しにくいのも、学級がなく人間関係が悪化しても自由に関係を解体することができるから。

この辺りの発想が内藤の学級制度廃止論にもつながっているような気がします。
ぶじこれきにん
2010年09月07日 12:22
こうもりさん、日曜日SSTでグレーゾーン女性と話をして空気を読めない。違和感がある。人には言えない苦労を見た目は普通。特例子会社で言えばボーダーと言われる人は目に見えない苦労をしている。
 本題のいじめの話ですが、学校が相性とか考えずに学校の都合でクラスを作る。その中でこうもりさんが述べる人間関係の固定化が子どもにストレスとなって、そのストレス解消のためにいじめがおきる。
 クラスを子どもに選ばせると言った大胆な取り組みを文科省がしない限りいじめはなくならない。子どもの権利条約に基づいた対応を学校がしないとだめ。
 障がい者権利条約と憲法25条を施設・作業所・特例子会社・企業が勉強会を開かないとだめなのと同じか・・・・・
 子どもと障がい者・女性にどうしていいか聞かない日本社会は閉鎖的なのかもしれない。
 学校のクラス制度は廃止した方がいいだろう。内藤氏の考え方に賛成。
こうもり
2010年09月08日 22:50
ぶじこれきにんさん

これは心理学などできちんと扱ってほしいテーマなのですが、学校というのは本当に勉強がしやすい環境なのか、あるいは子どもたちが仲良くできる環境なのかという部分はきちんと効果測定を行なってみる必要があると思っています。

学習保障を実現する方法は無限にあるのではないかとも思います。
ぶじこれきにん
2010年09月13日 08:38
こうもりさん、最近原発事故と地震が重なると、自分たちの居るこの社会が崩れるという警告の本を読んで衝撃を受けています。特に静岡の原発が事故と地震、下手すれば、東京に放射能が降り、日本そのものが崩れる。(東京がこけると日本も共倒れだから、私の住む千葉も何らかの影響を受ける。)奈緒美さんは自閉症者は炭鉱のカナリアと表現したが、炭鉱のカナリアの警告を支援者・ブロガーにしたけど、誰もスルー、支援者にいたっては頭の中で考えた妄想としてしかみない。
 デモこれは原発事故に関心ある私が、原発事故と地震というクライシスが現実に襲ったらグレーゾーンの人も打撃を受ける。親と当事者共倒れの事態もありうる。支援者の人生に何らかの影響がある。ブロガーの人生にも影響ある重大な事態なのです。関西で地震があると地震学者が警告してもスルー。ご存知の阪神大震災が起きてみんな気づいた。定型日本人って危機の予測が出来ない。
 危機に直面して始めてそのことを認識する。そういう危機に対応がその場しのぎにしか出来ないのが、定型日本人なのです。
 幸いに原発震災もないのでこういう本音を合えて書きます。
 話は変わりますが、学習保障を無限にあるのなら、こうもりさんの学習保障の無限にある方法をお聞かせください。
こうもり
2010年09月15日 09:00
ぶじこれきにんさん

仕事などのため、連絡遅れました。原発事故の例が的確な感じです。いろいろ前ぶれになる事故は確認できているが、それを放置しているうちに、大惨事が発生してしまうというパターンです。

学校のグレーゾーンの子どもの言動というのも、学級という空間,世界で起こるトラブルの予兆なのかもしれません。
こうもり
2010年09月17日 18:46
9月25~26日の障害学会の続報です。以下のページで学会での報告内容が紹介されましたので、お知らせします。本文を読むことも可能

http://www.jsds.org/jsds2010/jsds2010-home.html#3

まあ、これを読めば当日学会に行かなくても、どんな内容の発表をするのかは分かると思います。ちなみに26日の13:00~14:30が発達障害部門の発表となっています。ではでは
たむりす
2010年09月17日 22:11
こうもりさん、別名、山本です。わかりますか?
心理からこのいじめ問題を分析すると、結局のところ、教師の心性、特性、子どもの心性、特性といった個人主義に陥るような気がします。子どもが担任を選べたり、クラスを選択する権利ができたとしても、結局、いじめの構造は形を変えて、対象を変えて、脈々と続いていくのだろうと思います。文化か、社会か、人間か・・。難しいですね。
こうもり
2010年09月20日 11:16
たむりすさん

ご意見ありがとうございます。内藤朝雄は心理社会学あるいは臨床心理学というテーマを扱っているため、社会学の中では珍しく、精神分析や心理の知見に基づく説明も多くなされています。

そういう部分が社会モデルの中でも心理学を受けつけない立場の論者からは問題視される場合があるかもしれませんね。

この点について、わたしはこう考えています。社会モデルというのは、心理学を含めた個別支援的な学問を完全に排除するようなモデルなのではなく、あくまで個人に対する働きかけではなく社会に対する働きかけを優先させる学問なのではないか、と。

こうもり
2010年09月20日 11:22
この点については『いじめの直し方』の中で内藤朝雄がいみじくも語っています。この本はあくまで治し方(治療)ではなく、直し方(社会設計の変更)を扱っている本だ、と。あくまで、個人を変えるための本ではなく、社会設計を変えることによって問題解決を図ろうとする本なのだ、と。

例として挙げているのは交通事故。交通事故が多い曲がり角があった時、
個々のドライバーの運転技術を上げていく取り組みも確かにありうるが、
そうではなく交通事故が多い地点の道路設計を変えていく必要があるのではないかという話です。

この点において、内藤朝雄はやはり社会モデルの論者だと考えています。
こうもり
2010年09月20日 11:31
さらに内藤朝雄の議論では、臨床心理学的な方法(例えば、学校に心理士を配属する,ピア・カウンセリングを実施するなど)による解決は明確に否定されています。学校を温存したまま、個別援助的な方法で問題を解決することは、むしろ今の学校の関係の流れを維持してしまい、たむりすさんがおっしゃるようないじめの温存を引き起こしてしまうと考えているためです。

問題を解決するために、現行の制度を変えずに心理療法やカウンセリングに走ることにはむしろ警鐘を鳴らしています。
こうもり
2010年09月20日 11:45
では、わたし自身が心理学に期待することは何かを話していきたいと思います。これまでの犯罪の議論でも言いましたが、わたしが期待しているのは、心理療法やカウンセリングではなく、現状把握や効果測定です。普通学級か特別支援学級かという議論においては、このような調査が案外きちんと行われていません。

 どのような環境において、子どもの負荷が増えるのか,高ストレス状態に陥るのか,その教育の目標が達成されやすいのか,過ごしにくい子どもが出てくるのを防げるのかといったことはもっと心理学的に検証されてもよいと考えています。

 さらに何らかの教育構想が打ち出された場合、それがどのような結果をもたらしたのかを社会心理学的,実験心理学的に効果測定してみる必要もあると思っています。先ほどの交通事故の例で言えば、どのような道路設計をした時により交通事故が減らせたかという検証が必要ということです。

個別に援助をするためというよりも、集団の関係の流れを把握するためや、効果測定をするために心理学を活用した方がいいというのが、わたしの考えです。
ぶじこれきにん
2010年10月13日 14:02
原発震災を警告しているが、周囲は察知しない。こうもりさんが言うように、グレーゾーンの子供たちは学校は子供のためにあるのというエラーメッセージなのかもしれない。自閉症は炭鉱のカナリヤと奈緒美さんは言う。定型発達の人はその警告に真摯に耳を傾けるべきだろう。
こうもり
2010年10月13日 19:39
けっきょく、発達障害者の問題提起を発達障害者だけの支援に生かす,発達障害者に固有の問題としてのみ捉えるという方法では問題は矮小化されてしまうことになります。問題はあくまで、メッセージを発した本人だけでなく、その本人のいる集団全体の問題として捉える必要があるでしょう。
ぶじこれきにん
2010年10月14日 06:18
ここだけの話。某支援機関の会合に出ているが、個人の問題として捉えていて、集団の問題、社会の問題という問題提起すら支援機関および、支援者は捉えない。
 自分たちの住む社会が発達障がいの人に生き辛い葉わかるが、どういう社会にしたらいいかまでは想像力、構想力が乏しい。
 個人の問題は、その当事者が属する集団の認識だということすら乏しい。(これは就労の問題でもそうなる。企業側の問題と捉えず、個人の問題と捉える傾向がある。)
こうもり
2010年10月16日 18:54
いわゆる個人モデルの立場に立つ場合、「社会を変えるのは容易ではない、個人から変わっていくべきだ」「社会の悪口を言っても何も変わらない」という立場を採られる方が多く、枠組みそのものを疑う考察というのはあまりしなくなってしまうようです。

実はそれこそが社会問題というやつの元凶なんですけどね。
ぶじこれきにん
2010年10月27日 19:12
こうもり氏へ、古本屋で内藤氏の<いじめ学>の時代を買いました。内藤氏のいじめの考え方を読んでみたいと思います。
 本をさわりで見る限り、かなりシャープな切れ味のする教育学者と言う感じのする人でした。先鋭派のこうもり氏向きの学者だと思いました。

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