アブノーマライゼーション序章(11) 社会参加の罠

「人間らしさ」の実現を目指す支援理念の問題点をアブノーマライゼーションの観点から語ってきた。今回は問題提起の一番最後となる「社会参加」について問題提起を行いたい。この問題提起が終わった後は、まとめとアブノーマライゼーションが目指す道について抽象的ながら結論をつけておきたい。現実的な対案や提案も行ってほしいというご意見もあるとは思うが、それはアブノーマライゼーションの目指す道ではない(むしろ、人間らしさの実現ではない何らかの救いとなるような理念があって然るべきというまなざし自体が、「人間らしさ」の実現を目指す理念が仕掛けた罠かもしれないので)。

ともあれ、本題の社会参加に移ろう。社会参加には色々なテーマがあるが、特に希望として語られやすいのは学校参加,労働参加,地域参加などだ。学校参加については、まず障害者が学校教育を受ける権利保障を求める運動が考えられるだろう。より徹底したインクルージョン教育においては、ただ学校教育に参加するだけではなく障害のないとされる子どももあるとされる子どもも同じ学級で共生教育を受けられるようになることが究極の目標とされる。
労働参加においては障害者が働いて給与を受け取ることにより、権利享受し義務(納税など)を果たす当事者となることが求められるだろう。地域参加については障害者が障害のない人と同じように当たり前の生活を送ることが目指されるだろう。もちろん他にも経済活動への参加,政治への参加,家族生活を営むことなどが目標とされる場合もあるだろう。しかし、今回は学校参加,労働参加,地域参加というテーマに絞って考察を進めていきたい。

まず、はっきりと問題点が指摘できるのは、教育参加と労働参加だろう。これについてはアーヴィング・ゴフマンの「全制施設」とミシェル・フーコーの「監獄」の概念を使うと説明しやすい。まず「全制施設」についてはゴフマン本人の説明を紹介しておこう。

「全制的施設 a total institution とは、多数の類似の境遇にある個々人が、一緒に、相当期間にわたって包括社会から遮断されて、閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所、と定義できよう。」(ゴフマン『アサイラム』)


ここでなされている「全制施設」の定義を細かく分割すると以下のようになる。

①多数の類似の境遇にある個々人が一緒に住んでいること
②相当期間にわたって包括社会から遮断されていること
③閉鎖的で形式的に管理された日常生活を送る居住と仕事の場所であること

おそらくゴフマンがイメージしていた全制施設は刑務所,少年院,病院,福祉施設だと思われる。しかしここで困ったことが起こる。②の包括社会からの完全遮断という条件を取り除いてしまえば、学校や職場は見事に全制施設の定義に該当してしまう。無理やり言葉を作るならば、学校や職場は半全制施設とでも言うべき施設ということになるだろう。特にはっきりしているのは学校だろう。同じぐらいの年齢層の子どもたちが年齢ごとに学級に振り分けられ、同じタイム・スケージュールで行動していく生活空間。現在、習熟度別授業を行う学校も増えているが、同じぐらいの能力の子どもを同じクラスで授業するというのも全制施設の①の定義と矛盾しない。特に全寮制の学校は生徒の学業以外の生活の管理も可能なので、全制施設そのものと言ってもよい。そう考えていくと、学校教育への参加とは不完全な全制施設への参加でしかないという倒錯した事態が生み出されてしまう。共生教育か特別支援教育かという選択肢も、不完全な全制施設の子どもたちをどのように分類して教育を行うかというテーマでしかなくなってしまう。工場労働やサラリーマン勤務についても同じことが言えるだろう。職場とは同じ会社や職種についている人々が職集まり閉鎖的で形式的に管理された空間で仕事をしていく不完全な全制施設でしかない。完全な全制施設との違いは自宅に帰って家族生活や地域生活を営むことが曲りなりにもできるかどうかでしかない。

この考え方をさらに徹底させたのが、ミシェル・フーコーの「監獄」概念である。フーコーの言う監獄とは刑務所や少年院だけのことを指すのではなく、孤児院,感化院,施寮院,病院,軍隊,学校,様々な仕事場などを指す。フーコーはこれらの施設全ては社会に従順な身体を作りだす規律訓練システムと見なした。そう考えると近代以降の人間のほとんどは何らかの「監獄」に所属せざるを得ないことになる。せいぜい、学校や仕事場のような恒常的には拘束されない不完全な全制施設/監獄に参加した方が、完全な全制施設に無理やり収容されるよりはましだろうという程度の話でしかない。

「人間らしさ」の実現を目指す諸理念は学校参加や労働参加の実現を賞賛する。しかし、そこにある種の倒錯があることを見過ごしてはならないだろう。

では、地域参加についてはどう考えればいいだろうか。少なくとも障害者施設に収容された障害者たちは施設以外の場所で生きる道が閉ざされていた。仮に職場,学校が不完全な全制施設であるということを認めたとしても、完全収容されているよりはましなのではないか。また、現在は地域や自宅にいながらにして、医療,福祉,介護,教育を受けられる可能性はかつてないほど高まっている。つまり、全制施設/監獄を作り出さなくても必要な支援を受けながら地域生活を送ることができるのだから、学校教育への参加,労働参加は必要悪と見なすとしても、地域参加についてまでは否定する必要はないのではないだろうか。そんな意見も当然出されることが想定される。

しかし、ジル・ドゥルーズの「管理社会」の概念を理解すると、その逃げ道さえ絶たれてしまうことになるだろう。ドゥルーズは在宅福祉や生涯教育を例にしながら管理社会を説明する。彼によれば管理社会においてはもはや学校や職場のように時間や空間を限定して人々を管理する必要はなくなる。時間や空間を限定せずに日常生活空間において恒常的に人々を管理できる社会こそが管理社会なのだ。例えば、教育はかつては子どもが大人になるまでのある一定期間にだけ学校という施設の中で行われたが、現在は訪問教育,通信教育などの選択肢が広がり学校に通わなくとも教育は可能となっている。早期教育や生涯教育の普及により、誰もが学齢期以外の時期にも教育にさらされるようになった。さらに保護者との教育相談ペアレント・トレーニングという支援プログラムによって支援科学による教育プログラムは保護者などを通じて不登校児や発達障害児に受けさせることが可能となっている。
在宅福祉や在宅医療の普及によってかなり障害や疾患の重い当事者たちも自宅で健康な生活を送ることができるようになったが、同時に地域生活そのものが医療化する事態となっている。管理社会に生きる人間は地域や家庭においても支援科学の成果を享受できるとともに、支援科学による管理から逃げる場所さえ失ってしまう。そして、前回のコメントの内容につなげるならば、支援科学によって人間社会に望ましい形にコントロールされながら望ましい生活様式で生かされることになる。このような社会においてはもはや全制施設も監獄も必要とはされない。地域社会全体が施設のようになっているからだ。

そういう意味で障害者(変異体)の人間社会への参加を推進する過程は、それまで施設の中で実行されていた支援プログラムの管理が地域社会に広く行き渡る過程とも言うことができる。

知的障害を伴わない発達障害者支援に採用された支援プログラムの多くが、それまで知的障害者施設,精神病院,少年院などで利用者,患者向けに行われていた支援プログラム(例えば、構造化,認知行動療法,SST,ADHD児に採用された少年院の厚生プログラムなど)であったことも象徴的である。なお、最近呼んだ就労困難層(かつての流行語で言えばニート)の就労支援に障害者支援で採用されている仕組みを利用できないかということが真剣に提案されているという(例えば、ジョブコーチによる就労適応支援)。今後の動向に注目しておく必要がある。

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この記事へのコメント

ぶじこれきにん
2009年04月27日 11:42
う~んこれがレスの答えか。労働の本質を抉っている。労働の本質が管理である事を見抜いている。支援者達は労働の喜びを教えたい。その労働の喜びの本質もついている。答えが無い。否定されるだけ。戸惑う人は多い
ぶじこれきにん
2009年04月28日 06:08
もしニート支援プログラムが障がい者支援プログラムを応用を考えているなら、支援テクノロジーは管理だというこうもりさんの主張は正しい。的を得ている。
 労働が隔離というのは納得。その業界しか通用しない隠語も飛び交うし、社員食堂という閉鎖的空間で食事をする。地域生活もただ障がい者を地域で住まわせているだけで、支援の側の都合で家賃値上げしたりして住人に負担をかける事がまかり通る。こうもり氏は100年に1度しか出ない天才だ。
 その天才の説く社会参加の罠はお説の通り。脱帽した。
こうもり
2009年04月28日 20:14
いへいへ、まだまだフーコー,ドゥルーズの受け売りに過ぎませぬ。もう少し磨き上げなければ。。。

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