アブノーマライゼーション序章(10) 理解の罠

よく他の当事者や支援関係者から言われることがある。

「そんなことでは、定型発達者の理解を得ることはできない。」
「あなたも本当は周りの人から理解されたいんでしょ。」

既に当事者は周りの人々に理解されたがっていて当然の相手だというこのまなざしにも問題があるのだが、それはもう少し後で述べよう。今回は理解と肯定的態度の促進についてアブノーマライゼーション観点から論じてみよう。

自閉スペクトラム分野に関して言えば、理解については以下のような営みが既にある

①支援科学(主に医療,心理,教育,それらを融合した療育)に携わる支援者による学問的理解の普及促進
②保護者による子育て体験記と当事者の体験的な説明
③当事者による異文化モデル的説明

このうち今回取り上げるのは①と③の営みである。これらのどこに問題があるのだろうか。まずは、サイードの言葉を引用しつつ、①について考えてみよう。サイードはオリエンタリズム批判の中でライオンを喩えに欧米によるオリエントに対するまなざしを以下のように説明する。

「かりに我々がライオンは獰猛であると主張する本を読み、 しかる後、じっさいに獰猛なライオンに会ったとしよう。
我々は多分、同じ著者の本をもっと読もうという気になり、 しかもその本の内容を信用するようになるだろう。しかし、もしその上に、 そのライオンな本が獰猛なライオンの扱い方をも説明していて、 その説明が実際にも完璧なまでにうまく役立ったとすれば、 著者は絶大な信用を得るばかりでなく、別の種類の著作にもてを染めてみない訳にはいかなくなるだろう。 (中略)だから、獰猛なライオンの扱い方を論じた本の出現を契機として、ライオンの獰猛さや、獰猛さの原因等等を主題とする本が 続々出版されることになるかもしれない。また、同様にテクストの焦点がこの主題、 すなわちライオン一般ではなくその獰猛さに狭く絞られてくるにつれ、獰猛なライオンを扱うために推奨された方法が、 実のところはライオンの獰猛さをますます強め、ライオンを必ず獰猛でなければならないものに
仕立て上げることになるだろう。 (中略)ちょうど、獰猛なライオンに関する書物が、ライオンが口答えしない限り、
いつまでも生命力を失わないのと同様に、 この側面もいつまでも生きながらえようとする。」(『オリエンタリズム』より)

これを発達障害理解に当てはめるとこうなる。仮にある人が発達障害者は不適切な行動が多い,認知に歪みが発生しやすいと主張する本を読み、しかる後にじっさいに不適切な言動のある発達障害者と出会ったとしよう。さらにその本の中に発達障害者への適切な教育の仕方,関わり方が書かれており実際に臨床現場で役に立ったとすれば、著者は絶大な信用を得ることになる。そして、その人は発達障害に関する別の著作も読み漁るようになる。その結果、発達障害者への教育,関わり方についての本の出現を契機にして、発達障害者の不適切さ,不適切さの原因などについて論じた本が続々と出版されるようになり、ますます発達障害者の不適切さに焦点が絞られてくるようになる。皮肉なことにその結果、発達障害者を扱うために推奨された方法が発達障害者を必ず不適切でなければならないものに仕立て上げていくことになる……。

大型書店に山積みされている発達障害の原因,療育,特別支援教育について書かれている本の群れを見る度にわたしはサイードのこの言葉を思い出してしまう。ただし、誤解がないように言っておこう。わたしは発達障害関連の支援本が発達障害者の「不適切さ」を強調していることを問題にしている訳ではない。それが問題なのであれば、解決策 はいたって簡単。臨床家が当事者の目も意識しながら発達障害に記述していけばいいだけだ。そういう意味での良書ならば発達障害支援の世界にもいくつか存在する。定型発達者と非定型発達者の違いを文化相対的に捉えた本,発達障害者の短所ではなく長所に目を向けた本,当事者の純粋無垢さに目を向けた本,当事者が危険であるとする偏見に対して異議を唱えた本,周囲の困った感ではなく本人の困った感への解決策を提示した本,当事者の「人権」を重視した本など,……。

ところが、サイードのオリエンタリズム批判の場合でもそうなのだが、問題にされているのは多くの著作が研究対象となる集団を否定的に捉えていることではない。肯定的な側面を捉えた本もまた問題化されているということに留意しておく必要がある。問題となるのは、これらの著作が発達障害者を支援科学の力によって観察し分析し理解し統制することが可能な相手と見なしてしまっていることにある。例として発達障害の犯罪報道を巡る言説を挙げてみよう。

20世紀から21世紀に移り変わる頃、犯罪と心の闇というテーマに社会の関心が向き、精神鑑定で発達障害とされた触法青少年もよく話題にされた。それに対抗して支援科学は以下のような言説によって対抗した。

「犯罪を犯したのは未診断,未治療の当事者だ。適切に早期発見,早期対応された当事者ならばそんなことはしないし、予後は良好だ」

もちろん、支援の観点から見ても、この対抗言説は明確に問題がある。つまり、未診断の当事者,子どもの頃に支援を受けなかった当事者をスケープ・ゴートにして早期発見,早期対応をされた当事者の品質保証を図っているからだ。狂牛病が流行った際に一部の食肉会社が「狂牛病にかかったのは、我々が適切に品質管理を行わなかった牛だけである」と言い立てて風評被害を避けようとしたのと同じ戦略だ。

しかし、アブノーマライゼーションが問題とするのは、むしろ対抗言説が以下のような傲慢さを持っている点にある。
まず、対抗言説は発達障害者は支援科学の力によって観察し分析し理解することが可能な相手だと述べている。その上で発達障害者には適切な支援方法(飼育方法?)があり、社会的に適切なあり方に変えていくことができると述べているのである。最も悪意のある解釈をするのであれば、発達障害者は支援科学の力によってどうにかできる相手(統御可能な相手)だと言っていることになる。見方によっては、発達障害者が犯罪予備軍扱いされるよりもはるかに見下されていると言ってもよい。それに対して、アブノーマライゼーションは当事者が理解不能/統御不能な存在になることを志向するだろう。

また、支援関係者からはよく「どんな支援が必要なのか(あるいは必要だったか)?」「どんな関わりが必要か?(あるいはだったか)」「社会参加を実現するためにはどうすればいいのか」という質問が繰り返されるが、これも支援科学の持つ一方通行なまなざしに基づいている。この質問をする関係者は発達障害者を「人間としての承認,共生,社会参加,支援,理解を求めていて当然の相手」と見なしてしまっているからである。これについてのアブノーマライゼーションからの応答はもはや繰り返すまでもないが、「人間らしさの実現はもはや当事者全ての究極の目標ではなくなっている」となる。

では、③の当事者による異文化モデルの主張はどのように捉えるのだろうか?当事者の異文化モデルは当事者の身体感覚,感覚過敏,認知特性の違い,体験世界(タイム・スリップ,フラッシュバック)の特異性を強調する。その上で「定型発達者」と「非定型発達者」の差異を優劣ではなく横並びに捉え、自らの生まれつきの特性やそれに基づく言動を「文化」として説明する。もちろん、その差異が本当に存在するかどうかについてまでは論じない。わたしの観点から問題にされるのはサイードのオリエンタリズムでも問題にされた「異文化趣味」にある。ドナ・ウィリアムズの衝撃的な半生記が出版されて以来、自閉症当事者の特異な体験世界には多くの関心が寄せられてきた。そして、この関心に訴えかけることが、当事者が理解と肯定的な態度の促進を訴える重要な戦略になっていることは間違いない。

しかし、わたしは当事者の異文化戦略を見ていると、つい被植民化されたアジアの国々が伝統文化を売り物にした観光ビジネスを振興することによって、本国からの関心をひきつけようとした戦略を連想してしまうのだ。多くの識者の自閉趣味を利用した異文化戦略。当然のことながら、理解と肯定的態度の促進は重要ではないと考えるわたしには無用の戦略となる。仮に「人間らしさ」の実現を目指す支援について何か提言をしなければならない立場に立たされた場合でも、基本的には恐怖と欠乏からの自由と持続的な生の実現を訴えればそれでいい。

異文化モデルもまたアブノーマライゼーションによって乗り越えられなければならない枠組みのひとつである。

(次回より、「社会参加の罠」)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

ぶじこれきにん
2009年04月14日 12:51
他の当事者は当事者を理解しない。こうもり氏が本で語ったテーゼはグループホームで他の当事者が私の真意を理解しない場合有効である。
 異文化理解としての本人発言なら、支援と支援科学の側は見世物として異文化モデルとしての発達障がいを見ている。自分達にコントロールしやすいか、志や少ないかでしか見ていない。それらの発想に施設で疑問を抱く当事者のレスを読んで思うのはあえて支援のコントロールを離れるアブ・ノーマライゼーションは時と場合において有効なのだ。
 コントロールしやすい存在だから企業社会に社会参加して奴隷として働きわずかな賃金を得て地域で生活する。それに苦しんで助けを求めている時、支援は見てみぬふりか、黙殺である。
 支援が必要とされるとき、支援は助けを拒否して、愚痴を言っても聞いてくれない。おかれた立場すら理解しない。
 
ぶじこれきにん
2009年04月14日 13:01
支援の側は当事者が社会のトラブル起きた時、事の重大さに気づくが後の祭り。
 こちらは批判される様な事も、自分達がすると自己批判すらしない。
訂正=自分達にコントロールしやすいか、しやすいかでしか見ていない。
 こちらの立場すら理解していない。
理解って何だろう。理解をするなら、発達障がいの性格、傾向を企業に理解を求めるのが支援の役目だろう。
 自分達が自分の物差しで当事者を理解していたら、企業や社会に発達障がいに理解を求めるのは無理だろう。
 社会と同じ見方しかできない。
だったら理解なんてしない方が言い。理解パフォーマンスはお互いのためにならない。自分達は公正で偏向もなく立派な存在と傲慢に思わない方がいい。
 私を含めた発達障がいは異文化モデルの束縛から抜け出るときかもしれない。
 
 
ぶじこれきにん
2009年04月14日 13:05
恋愛の場でも定型との場合、迷子にならないか、なるかでしか見ない。
 日本という同質性社会では発達障がいは異文化でしか理解しない。それも異文化として尊重するのではなく、変わった見方をするエイリアンでしかない。
 それなら異文化モデルから抜け出るときなのかもしれない。そんなことを考えてみた。定型の価値観の押し付け!!人と自分は同じと思い込む日本的同質性を拒否しようではないか・・・
 コメント500字をオーバーする議論で申し訳ありません。日頃の思いをぶつけてしまったので・・・・・
こうもり
2009年04月15日 23:23
字数オーヴァーの件はご心配なくです。ちなみに今日は遅いのでレスは後日ということで

この記事へのトラックバック

  • 受取手の芸術的享楽

    Excerpt: どんな作品をよいと思うのかはその時の気分による。 どんな作品でも、コピーじゃない限りなんらかの見るべきものがある。 それを見つけられ�... Weblog: アブラブログ racked: 2009-04-14 00:34