障害者と生産性の過去・現在・未来

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<<   作成日時 : 2008/04/06 10:15   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 6 / トラックバック 2 / コメント 53

こうもり@悪戦苦闘の末、やっとネットの引越しが完了したぜです。で、引っ越したのを期にブログの方針を修正しました。(最近、本文が進まずにこればかりやっておるな)おおまかな変更点はトップページの紹介文にある通りなので、ここでは補足だけをしておきませう。

(1)タイトルの変更とその意味

「流動する怪物のブログ」から「アブノーマライゼーションへの道」へ変更しました。今までは障害何でも雑学コーナーと化していたのですが、これを期に自分のテーマに専念することにします。

アブノーマライゼーションという言葉はなじみがないかもしれませんが、まずは「人間らしさの実現」という呪縛から脱出することを目指す試みだと考えていいでしょう。障害者支援の理念は多様ですが、いずれも「人間らしさの実現」という共通目標を持つと考えられます。(「人間としての承認」「人間としての権利の獲得」「人間らしい地域生活」「人間らしい社会参加」「人間らしい立ち振る舞い,言動」「人間らしい心身機能の向上」など)。

もちろん、この方向性で満足している当事者ならば、それで大丈夫です。ノーマライゼーションやインクルージョンの理念に基づく支援は、そんなあなたの「人間らしさ」の実現に喜んで協力してくれるでしょう。ところが、ある種の感性とを持った当事者はそこに疑いの目を向けることになります。

そもそも、「人間らしさ」とは一体何なのか?なぜ当事者がそれを目指さなければならないのか?どうして、人間の仲間入りすることが無条件によいと言えるのか?自らのあり方を人間に近づけているかどうかで評価されなければならないのか?仮に人間と認められたとしても、それは人間が「おけら」や「ミミズ」や「あめんぼ」を生きものと承認しているのと同じで、周辺化された人間として承認されているだけなのではないか?ノーマライゼーションに規格化という別の意味があるように、「人間らしさ」にも何らかの規格化の意図が隠されていないのか?それを実現するために当事者がよいイメージを垂れ流すこと、行儀よく振舞うことを求められてかえって窮屈になっていないか?あるいは、人間らしい立ち振る舞いや能力だけを要求されて終わってしまうのではないか?そのために用いられるメディア戦略はプロパガンダと何ら変わらない戦略に過ぎないのではないか?メディアで流される肯定的な障害像こそ認識の暴力の最たるものなのではないか?

このような疑問を少しでも持ったことのある当事者ならば、既にアブノーマライゼーションへの道の入り口に立っていると言えます。ここでは「人間らしさ」の理念やそれを実現するための手段が持つ権力性・暴力性・欺瞞性を徹底的に考えていきます。そして、時に「人間らしさ」を目指すことの不毛さ,そこから離脱していくことの必要性を説いていくでしょう。

(2)今後のテーマから除外するもの

支援に対する提言は今後一切行いません。支援そのものが「人間らしさ」を目指しているからというのもありますが、仮に支援という営みを承認するにしても、もう既に語れることは語りつくしたという思いが強いからです。

@支援において最も重要な目標は「恐怖と欠乏からの自由」である。

A欠乏に苦しむ当事者に対しては、仕事を提供するか生活保護や障害者年金を支給するかのいずれかの手段によって、必要な財やサービスにアクセスできるようにする。(所得保障)

B暴力や略奪の被害に遭いそうな当事者がいれば、いじめ,ハラスメント,DVを全面的に禁止する法律を制定し、違反者には処罰と更生プログラムの受講を義務づける。(安全保障)

C労働基準法などの罰則を強化して、新たに働けなくなる当事者が増えるのを防ぐ。(労働災害の防止)

D当事者固有の支援や配慮については障害者差別禁止法を制定して、実施を義務づける。

@〜Dが実現するまでは、新たな提言を出す必要もないし、同じ主張を繰り返しておけばいいというのがわたしの立場です。特にAが実現できれば、あとはそれぞれの当事者が必要なサービスを購入し活動をしていけばいけばいいのですから、個々の支援や配慮について語る必要がありません。以上の理由から新しい展開は生まれてこないので、支援に関する提言は休眠することになりました。これからは自分の問題に特化して、語ってまいりたいと思います。ではでは

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とうとうこうもりさんも…
 こうもりさんがブログのタイトルを「流動する怪物のブログ」から「アブノーマライゼーションへの道」へ変更なさいました。  いよいよはっ... ...続きを見る
自閉症の人とそうでない人との話
2008/04/23 21:57
想像界に潜む「人間らしさ」という暴力。あるいは『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』への違和感。
この記事のコメント欄と、この記事。 いろいろ考えている。 ...続きを見る
アブラブログ
2008/09/13 14:54

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コメント(53件)

内 容 ニックネーム/日時
わっほーい!
とうとう来ましたね? 待ってました。
自分もこの際、HNの統一化を図ってみます(笑)。
ドードーとら(=捨松)
2008/04/06 16:27
大佐の本、アマゾンで買いましたよ。
心機一転、加油!
綾織
2008/04/06 19:07
確かに障がいという物を突き詰めると、定型と同じ生き形、思考、行動をする。こうもりのような存在にわれわれがなるという事だ。
 こうもり氏がそこに気づいたのはいいことだ。メディアで垂れ流される純粋で無垢で性欲も物欲もない障がい者像はありえない。
 われわれも性欲も、物欲もある同じ人間という視点がメディアで垂れ流される障がい者像にはぬけている。
ぶじこれきにん
2008/04/07 15:54
それに行儀良く振舞って、定型の望む障がい者市民のありようを演じたとしても、自分達と同じ仲間としてみるとは限らない。
 こうもり氏のアブノーマライゼーションを自分なりに考えるとこうなる。
 人間らしくなる。ノーマライゼーションとしての優等生的当事者が、本人発言等をすれば周りが過度の期待をしがちになる。
  人間らしくなる。ノーマライゼーションとは当事者にとって本当にいいもので満足できる物なのか???自分らしい自分からかけ離れた定型受けの良い当事者像を演じるだけにすぎないのでは???
  だがそれは本当にその人らしいものなのか???人間らしく生きる=定型のコピーこうもり的存在に当事者を陥らせる。特に日本が同質性社会だけに、認知の違いとかを見逃して周りが自分達と同じと見がちになる。本当にそれでいいのか???
 こうもり氏のメッセージはすべてのスローランナーが自分の問題と考えるべきだろう。人間らしく行儀良く振舞う事をすれば、今のままだとスローランナーが定型もどき、こうもり的存在になるだけだ。
ぶじこれきにん
2008/04/07 18:10
▼ドードーとらさん

その名前お気に入りです。一体、どんな意味なんですか?

▼綾織さん

販売協力ありがとうごぜーますだ。少しずつ仕事には慣れてきました。

▼ぶじきこれきにん

アブノーマライゼーションにはもう一つこんな側面があります。人間として承認されなかった障害者たちの活動は人間として承認されることを目指していく。それに対して、人間に回帰していくのではなく、人間からさらに離れていく道もあるのではないか?この辺りのことを最近考えています。
こうもり
2008/04/07 18:15
こうもりさん、私のHNはぶじこれきにんです。無事旗鼓れきにんではありません。パソコンの入力ミスだと思いますが・・・
 アブノーマライゼーションは人間に回帰するのではなく、人間から離れる。定型もどき。こうもり的存在を脱皮するには脱人間=自閉動物としての生き方しかないか。支援者には考えられない発想だな。人間らしくなる事に疑問を持つ私には納得する事だが・・・・・
 自閉脳を持ち、他人の気持ちが理解しにくい。独自の世界を持つ自閉や、アスペルガーは支援によって人間裸子kなるのではなく、自閉動物としてのスローランナーの可能性を探る。そこでは目に見えない空気を読む必要もない独自の世界構築を目指す。
ぶじこれきにん
2008/04/07 18:45
▼ぶじこれきにんさん

失礼しやした〜。
こうもり
2008/04/07 19:19
ちと、むずいので、噛み砕いて私なりの解釈を。
『ワレワレ人間ハカク有ルベキダ』という基本概念を
打破する事から始まるのではないでしょうかね?
私のサイトでは、定型をWin脳、非定型(自閉症脳)をMac脳と定義し
答えさえ有ってれば、そこまでのプロセスは、問わなくても宜しいかと、と。
数学でさえ、別解を叩き出しますからな。
…とまあ、自サイトの宣伝なんかしてますが。
生き方なんて十人十色。犯罪に問われなければ
どんな生き方も有りでは?と思う此の頃。
固く、定型と同じ事考えていたら、身体持ちませんって。
必要最低限の礼儀や慣習は叩き込まないといけないのがガンですが。

『MacなAS』で検索してください。私の裏サイトです。
大佐、喧伝失礼しました〜
綾織
2008/04/08 02:23
>『ワレワレ人間ハカク有ルベキダ』という基本概念を
>打破する事から始まるのではないでしょうかね?

うみゅ、人間のあるべき姿,望ましい姿などと言ったものに囚われている当事者がいれば、それは幻想であり、無意味であり、指針にはならないと語るのがこのブログの役割とゆーことになるでしょう。うひゃひゃひゃひゃ
こうもり
2008/04/08 18:53
このブログの役割は、定型もどき=成長すると言う定型の支援者が押し付けた人間モデルをぶち壊して、その幻想に囚われたわれわれの常識を打ち破る。新たな脱人間観を構築する事かもしれない。
 自分らしくある事が、人間らしく見る。他者との比較で否定されるものだと、支援者は言う。それに違和感を持った私や、他の当事者にとってもこのブログは知的冒険になるだろう。
ぶじこれきにん
2008/04/08 20:40
このHNは、相方のHNに合わせて作ったものです。「ドードーとり」から一文字変えて。
ドードーとら
2008/04/09 05:13
▼ぶじこれきにんさん

ご期待に沿える内容になるかどうかはわかりませぬが、やれるだけのことをやってみませう。

▼ドードーとらさん

ということは『鏡の国のアリス』(BYルイス・キャロル)のキャラですかにゃ?一度原作を読んでみたいと思っているのですが、なかなか時間がとれませぬ。
こうもり
2008/04/09 19:26
おもしろい方向にブログが変わりましたね。
今後の更新が楽しみです。(^^)

ちなみに、とことん自閉的な特性を極めるという発想が
あってもいいと思うのに、
それが世間では受け入れられにくいのは
なんでなんでしょうね。

最低限の常識さえあれば(あまりに常識が無いのはどうかと思うけど)
自分の持ち味を生かしてのびのびして生活できる。
それが私の理想だったりします。

それには
経済的支援体制が必要だと思うんですよね。

発達障害の人は障害者年金が受け取りやすくなるとか、
就労しやすくなるとか、
もうちょと社会の支援体制が整って欲しいと感じました。

コメントが、
とりとめなくて、すいません。
あさみ
2008/04/10 11:44
そうですそうです。『鏡の国の〜』だったか『不思議の国の〜』だったかは忘れましたが…。ちなみに自分もまだ読んでません(苦笑)。
ドードーとら
2008/04/10 12:11
経済的支援体制は発達障がい支援年金とか、基本給を生活できる分固定給にして、能力に応じた出来高払いにする。定年まで会社が解雇せず終身雇用するなど、経済的支援をする仕組みが必要。企業に発達障がいのひとを雇用する枠を設けて、2〜3年は非正規雇用。3年経ったら正社員にする仕組みを厚生労働省が作る。従わない企業は罰金、実名公表のペナルティを課すなどの経済的支援を行政がする。
 自分の障がいの持ち味をプラスに生かして、最低限の常識を身につけて、社会で生活するには、有給はきちんと消化する。休暇は取りやすくするなど、人生を楽しくするシステムが必要。発達障がいのひとが雇用された職場で、非正規、正社員とわず定型の人をフォローアップ、休暇代行要員として、10名は配置する。そういうキメの細かい職場配置を行政が企業にお得意の行政指導をして発達障がいのひとが働きやすい職場にする。
 その職場の人員配置の増員がグループホーム・生活寮等で掃除・洗濯・料理等の生活の自立を当人達が負担感を感じず無理なく出来るようにするのにも役に立つ。
 
ぶじこれきにん
2008/04/10 15:21
このブログを見ている方々へ。発達障がいの人が現行のリストラで人員削減された中で1人〜3人の配置で働いて頑張り、グループホーム・生活寮で掃除・洗濯等に頑張るのは本人の負担を招き、生活の自立がしにくい状況を作る。生活の自立の観点からも発達障がいのひとが働く職場で人員配置を増員して、仕事の負担を減らす事は当人が長く仕事を続ける動機になり、生活と仕事の両立を負担なく出来るきっかけにもなる。
 現実をご存知の方はそんなのありえないというでしょう。
こうもり氏は人間らしい生活・仕事・社会生活のありようをあえて否定して、自閉脳という特殊な肉体を持ち、頑張りすぎるとオーバーヒートしてプッツン切れる肉体と障がいを持ったわれわれでも人生を楽に生きられるヒントを問題提起している。コメント500文字の制約を越える意見でごめんなさい。
ぶじこれきにん
2008/04/10 15:28
>ぶじこれきにんさんへ
確かに、我等が発達障碍者は、PCに例えれば
スペックの低いマシンなもので。
メモリだけ積んでもPCUが遅いと駄目じゃねえか、という代物でして。

でも、なんだかんだやっているんだな、これが。
其れを適材適所(楽天・野村監督)に置けば
トロクても、なんとかやって行けてお給金もそこそこ貰える。

まあ、こんな風にまとめてみました。

>大佐殿
読みごたえがありますな。というよりも
このブログの総集編(創成期)ではないのかね(と突っ込み)?
さて、次なるターゲットは?とワクワクドキドキものですな。
オーバーワークに成らない様に。」
綾織
2008/04/11 12:24
コメント遅れました〜。

▼ドードーとらさん

有名なアリスの話は原題が『鏡の国のアリス』、ディズニーアニメで有名になった作品が『不思議の国のアリス』なんだしょーです。ところが、ディズニーアニメの悪いところで、教育的配慮によって物語をよい子の物語に変えてしまうんですにゃ。

▼あさみさん,ぶじこれきにんさん

アブノーマライゼーション自体は支援とは無関係に話が展開されていきますが、こちらがそう意図していなくても、結果的に貢献することにはなるかもしれませぬ。

例えば、当事者の側から「人間らしい生活を目指すか、人間を捨て別の生命のあり方を目指して向けて生きていくか」という問いを提示することによって、「人間らしさ」の実現を目指す支援者が現在よりも当事者を取り巻く生活の向上に力を入れるといった場合です。おいらはそれでも後者の道を選ぶ可能性がありますが。

▼綾織さん

まずは、ルソーの教育論を終わらせた後、生命論にでも入っていこうと思っています。そして、この生命論がアブノーマライゼーションの本格的な出発点になるでしょうにゃ。そのためにも、少しペースをあげてみます
こうもり
2008/04/12 08:46
大佐閣下、新天地からの更新ですね。

今後が楽しみな内容ですね。

超亀更新でも構いませんので、オーバーワーク更新だけはしないでくださいね。

短いコメントですが、今後もよろしくお願いします。

ではでは。
Rosamonde
2008/04/12 14:04
> ディズニーアニメの悪いところ

ほぇ〜。そうだったんですか。何も知らず名前だけもらってましたが。

しかし…。いや、まあいっか。
とにかく俺は応援してますよ。俺自身も、どうしたって「アブノーマライゼーションへの道」に向かってしまいますしね。
ドードーとら
2008/04/12 16:46
▼Rosamondeさん

どもどもです。某専門家の「自閉当事者は事実は正しく語るが、解釈については独特なので注意を要する」という発言に反発して、意図的に理論と解釈中心のブログにしてしまいました。どうなることやら

▼ドードーとらさん

ありがとうございます。ちなみに以前、話題になった「認知のゆがみ」に対する対抗説ですが、サイード,スピヴァックに代表される「認識の暴力論」あたりが有効かもです(いずれもポスト・コロニアリズムに属する思想家,社会学ではカルチュラル・スタディーズに属する。社会学をやっている知り合いの当事者から教えてもらった)。そのうちにこっそり出版物の中に反映させてみます。ではでは
こうもり
2008/04/12 23:36
あと、興味深いのはフランスの心理学や精神分析学。既に人間の認知自体がかく乱されており、人間は自己を欺く存在だというところから出発しています。人間の認知自体がいかに頼りなく、都合よくできているかを語ることによって、対抗してみるというのもありかもです。
こうもり
2008/04/12 23:40
ええ。説明のしかたはいろいろありますよ。
人間は自己を欺く存在だと前提して、その例外・盲点に位置するのが自閉症者だ、と言ったっていいわけですし。
同じことを精神分析学的に、例えばラカンの用語系を使って言い換えるならば、こうなりますかね。普通一般に人は神経症であるのを常態として生きているということになるが、自閉症者は逆に精神病(分裂病や解離の方向性)を常態として生きているのだ、と。
問題は、どう言われたって大抵の人には理解できないということですね(苦笑)。
ドードーとら
2008/04/13 13:03
人間は自分を欺く存在としても、ドードーとらさんが言うように、その例外・盲点に位置するのがわれわれ自閉症者なのだ。
 独自の認知は本来マジョリテイとマイノリティの架け橋になる役割の支援者ですら理解できない。
 ドードーとらさんが言うようにマジョリティには理解不能。われわれの独自の世界は、絵や、陶芸で自閉症者独自のアート作品を通してマジョリティの定型は理解する。
 独自の道のイメージが描きにくいところがわれわれの弱点だ。
ただ多動行動もこの観点からすると自閉症・アスペルガーらしい自分らしさの行動といえるかもしれない。
ぶじこれきにん
2008/04/14 12:15
陶芸・絵等のアートという表現を通してマジョリティの定型は自閉症を理解するのかも知れない。彼らの言葉に表れないメッセージは絵や、陶芸というアートを通して語られる。それはわれわれが持つ豊かさなのかもしれない。
 それがわれわれらしさなのかもしれない。
ぶじこれきにん
2008/04/15 21:56
昨日、車酔いをしていたため、連絡遅れて失礼しました〜。

▼ドードーとらさん

おおう、ラカンが出てきましたの。たまたま、大学院時代の哲学師匠がラカン学派の人だったので、懐かしいです。わりかし、わたしは心理学・精神分析学は当事者を統御する学問というイメージが強くて食わず嫌いだったのですが、もうちょっと深入りしてみる価値があるやもしれませぬの。

ではでは
こうもり
2008/04/16 19:08
>ぶじこれきにんさん
俺の話をそのように回収されることは俺の本意ではありません。「われわれの独自の世界」だとか「自閉症者独自のアート作品(を通して人に理解されるもの)」だとか「われわれらしさ」だとかいうものの一切を、俺は全否定します。

>こうもりさん
心理学や精神分析学を、人を統御したり他人のことを(恣意的に)解釈したりするために使おうという向きは、確かにありますよね。そんなの本来の使い道ではないだろうにと、個人的には思いますけど。
ドードーとら
2008/04/19 07:26
▼ドードーとらさん

>心理学や精神分析学を、人を統御したり他人のことを(恣意的に
>)解釈したりするために使おうという向きは、確かにありますよ
>ね。

しょーです。だから、何となく障害者運動などでは心理や精神分析は嫌われる傾向が強いのですが、最近知り合いの影響もありフランス社会心理学,フランス精神分析学の著作を読んでみたところ、少しだけ見解が変わりました。障害者支援で使われ、支援の役に立っていればいい応用的な心理学,精神分析学と異なり、とことん人間の心理,精神分析をつきつめていけば、障害者どころか人間の言動,文化装置,制度そのものが極めて不安定な基盤,幻想や錯覚や虚構の上に成り立っていることがはっきりするのではないか、と。少なくとも、フロイト,ラカンの精神分析、ニーチェ,ベルクソンの道徳や宗教の起源に関する心理的な見解を読む限り、そんな印象を受けます。
あるいは、見方によってはプラトン,ルソーは本人たちにそんな意図はないにせよ、物語,幻想,錯覚,虚構をうまく人々に植え付けない限り、社会そのものが成り立たないと言っているようにも映ります。
こうもり
2008/04/19 14:09
そういうことでしょうね。
で、ある種の障害者は「虚構のほころび」のようなものとして存在しているわけです。自閉症なんてのは、その最たるものだろうと思いますねぇ。
ドードーとら
2008/04/19 15:44
障がい者アートが、われわれらしさだというのを否定する人もいる。色んな考え方があるから・・・・。
 自閉症=虚構のほころびという見方もあるだろう。
ぶじこれきにん
2008/04/21 19:38
>ぶじこれきにんさん
何の前置きもなく「障がい者アートが、われわれらしさだというのを否定する人もいる」とおっしゃるからには、ここにいる誰かがそれを否定したんだろうと思いますが、俺にはその人が見当たりません。一体誰です?
俺は「障がい者アートが、われわれらしさだ」ということについては肯定も否定もしていないから俺ではないと思うんだけど、話の流れ上は俺しかいないもんなぁ。困りました。

俺が上で否定したのは「障がい者アート」という括り方や「われわれらしさ」という考え方です。これらはどちらも虚構ですよね。
無論、虚構だから悪いということはありません。虚構がなければいろいろな事柄が成り立たないということは俺にもわかってます。
とは言え、でもそんなのあまりにも出来が悪いじゃないか虚構として。もっといい虚構の作り方があるんじゃないか? …などということを、俺は思ったわけです。
ドードーとら
2008/04/22 01:51
(続き)

俺は自分が、虚構と一体化することができない人間であることを、自覚しています。しかし一方で、虚構がなければいろいろな事柄が成り立たないことも知っている。だからいつも「“今のこの”虚構は、このまま進めていっていいのか? いいのか?」と問い続けてしまったりします。
いや、この問いそのものが人の形を取っている現象が俺だ、と言ったほうがいいのかもしれません。その現象(としての俺)は、程度は人それぞれとは言え虚構と一体化するメンタリティの持ち主が大多数を占める普通の人間集団において、まさに「虚構のほころび」として、ぽん、とあるわけですよ。

こうもりさんがアブノーマライゼーションだとおっしゃるのも、彼が俺と同じ自覚を持っているからだろうと思うんです。
自分は虚構と一体化することができない人間であるが、一方で、虚構がなければいろいろな事柄が成り立たない。とすれば、自分はそういう事柄に身も心も巻き込まれるということはできないのだ。とすれば、アブノーマライゼーションへの道を模索するしかない。…とね。

ま、そういうことです。
ドードーとら
2008/04/22 01:53
何の前置きもないと戸惑う人もいるので、ドードーとらさんのレスを見て一言。われわれらしさでくくるな。人にはいろんな人がいる。障がい者アート
でくくれないくらいいろんな人がいるということでしょう。
 虚構と一体化できない。虚構というフィクションに会わない人間が自閉症=虚構のほころび論を展開している。自分が虚構になじめない人たちがこのブログで自閉症=虚構のほころびの存在だと・・・・・
 確かに独自の世界を持ち、支援者ですら理解不能、自分しか理解できない世界を持つわれわれは虚構になじめない存在でしかないかもしれない。
 私個人でも定型の求めるモデルについて行けない。はまらない自分がいる。彼ら、彼女らの求める期待される人間像になってもこうもりさん言う周辺としての存在でしかない。こうもりさんのブログで問題提起したアブノーマライゼーションに共感するのもその辺にある。蛇足だが支援者側が、最近問題提起した自己責任はノーマライゼーションを前提にした論議である。
 こうもりさんが問題提起したアブノーマライゼーションにはなじまないコンセプトである。
ぶじこれきにん
2008/04/22 07:25
▼ぶじこれきにんさん

たぶん、今まで第1空間から第4空間まで色々な角度から語っていたために
ちょっとわたしの話を統一的に捉えるのが難しくなっていたのではないかと思います。しかも、支援についてわたしが語っていることと、これからブログで語ろうとすることも統一的に捉えることができない内容を持っているので。。。

こうもり
2008/04/23 00:57
という訳でちょっとだけ補足説明をしておきます。自閉者を「虚構のほころびのような存在」と捉えた場合、自閉者が取る道には以下のようなものが考えられます。

@長いものに巻かれろ方式で多少違和感や居心地の悪さがあっても、虚構に身を委ね、折り合いをつける努力をする。(これが現状の支援や自助努力の取り組みかにゃ)

A同じ虚構の中で生きているのであれば、今よりは多くの人が住みやすくなる虚構を作ってしまおうというやり方(これが、わたしの支援提言を行う場合のスタンスだす)

B現状の虚構に対抗して「障害者独自の虚構(つまり対抗文化)」を作ってしまおうという戦略。(障害者文化などがこれに属します)

Cまさに「ほころびのような存在」であることに徹して、あらゆる文化,社会に対して違和感を持ち考え続けていく異邦人のような存在になっていくことを目指していくこと。
こうもり
2008/04/23 00:58
で、このブログが始まって以来、わたしがA〜Cのいずれのスタンスを取るのか迷いながら、コメントを書きなぐっていました(@はわたしが完全に敵対していた発想です)。

このうち、Aについては本文に書いたように基本的な提言の方針が決まってしまい、これ以上の発展があまり望めなくなっています。だから、基本的には何か発言を求められても安全保障,所得保障,過剰労働の制限,障害者差別禁止法の実現を中心に語っていけばよいと思っています。Bの障害者文化についても問題提起自体には強い関心があるものの、当事者団体が「われわれの文化」と言って集団同一性を主張しはじめた時点で自らが虚構に身を委ねてしまったのではないかという危惧を抱いています。
こうもり
2008/04/23 01:07
そこで最後に登場してきたのが、「ほころびのような存在」であるということに徹するCの立場。この立場に立つ者は「多数派文化」「障害者文化」を含めてあらゆる集団同質的な文化に違和感を抱き、身を委ねることができず、その問題点を指摘せずにはいられない道を歩んでいきます。これが、現在のわたしが辿りついた方向性ということになるでしょう。
こうもり
2008/04/23 01:14
丁寧な説明ありがとうございます。論点整理して流れが見えました。
 @はこうもりさんもご存知のように仕事となると仕事社会の同化を会社も、支援する側も要求しがち。私の体験からいってもそういう傾向がある。違和感がある。社会という虚構はそれを求めがち。
 Aは同じ虚構に生きているのであれば当事者と定型発達者が住みやすいためには安全保障、所得保障、過剰労働の規制、障がい者差別禁止法といった大きな枠組みで対応する。
 Bは、われわれが独自の文化を作るという事で定型文化に対抗するサブカルチャーを作る。(こうもり氏も危惧するように同質性文化を作りがち。)
 Cは同感。虚構社会で異邦人として居直り生きていく。これがわれわれだ。マジョリティの支援者含む一般の人にはどうせ理解されないと居直る。
 私もそういう方向性に行くべきだろうと思っています。
ぶじこれきにん
2008/04/23 06:20
たとえ成長してゆく路線に乗るにせよ、そういう覚めた目線で対応していくのがいいかな。
 ドードーとらさん言う虚構って実社会の事ですか。みんな自分がこの虚構社会のアウトサイダーだという事を感じているからそういう考えにたどりつく。肉体的にも脳の仕組みが違うんだから、その違いを見ないで定型並みを要求するマジョリティとは一線を画していくべきでしょう。
 同質性社会ニッポンではわれわれはほころびであるべきだ。
ぶじこれきにん
2008/04/23 06:26
>こうもりさん
説明ありがとうございます。やはりそういうことでよかったんですよね。

>ぶじこれきにんさん
「虚構=実社会」というよりも、やはり「虚構に支えらずして社会は存在しえない」という感じでしょうね。
だから「この虚構社会」だなんてことは、俺は言いませんよ。それじゃあまるでどこかに「虚構に支えられずして存在しうる社会」が実在すると言っているみたいじゃないですか。
それから、これは「マジョリティとは一線を画していくべき」「ほころびであるべき」といった、「べき論」とはちょっと違うのですよ。自分は、例え全身全霊で長いものに巻かれようとしてみたところで、結局ほころびとしてしか存在できないらしい、ということへの気づきであってね。
こうもりさんは、例えば「反骨」といったような言葉を使わずに、「アブノーマライゼーション」とおっしゃったわけです。なぜ「反骨」ではいけなかったのか。こう考えてみたらもっとすっきりと理解できるのではないでしょうか。
ドードーとら
2008/04/23 10:20
反骨というと社会やマジョリティと一線を画して突っ張るみたいに思うから、アブノーマライゼーションというカタカナ語を使いふくよかな表現で自分達の主張をしなやかに、したたかに主張する。それをこうもり氏は言いたかったのか。反骨という一線を画していく主張はしたくない。
 べき論でないとしたら・・・・・ほころびとしてしか存在出来ない自分達のメッセージをアブノーマライゼーション(同質性文化の否定・他者との共存。違いを認めて多様性ある文化パラダイムへの転換)という意味に含まれている。我流解釈の答えですが、本質をついているでしょうか。忌憚のないレスお待ちしています。
ぶじこれきにん
2008/04/23 13:44
うーん…。こうもりさんが整理してくれたものに照らすと「多様性ある文化パラダイムへの転換」を目指すのは、AやBの範疇なんですよね。
アブノーマライゼーションはCだと言ってるんですから、それとはまた違う話ということになります。

そもそも、パラダイムって一種の虚構じゃないですか。それこそ社会全体を支えている大きな虚構のことですよね。
で、どれほど理想的な「多様性ある文化パラダイム」があったとしても、虚構は虚構。それにすっかり身を委ねるということは、自分にはできないだろう。そう自覚している。…という話です。
これは、居直りでも反骨でも反抗でも反逆でもないし、主張とすら言えません。ただの自覚、ただの事実認識ですから。
ドードーとら
2008/04/23 15:52
しかし定型文化は否定、一刀両断で圧殺する。違う宗教や、民族を否定する。圧殺する。中国人がチベット人の文化を弾圧して抹殺して、北京五輪を機会に主張するように、違う見方もある。多様性を認める。そのただの自覚から一歩進めてアブノーマライゼーションというこうもりさんが打ち出したコンセプトに自分の意見、見方を論じて活性化して基本的に当事者にとってよりよいアブノーマライゼーションを論議する。今のままだとアブノーマライゼーションはこれだという見方を当事者に押し付けるものになりかねない。それぞれのアブノーマライゼーション観をぶつけて、事実認識でも言い。反骨でもいい。色んな見方で論じていく事が大事。
ぶじこれきにん
2008/04/23 16:22
もう一つ。この見方だけが正しいとなれば、それは反骨でも反逆でもない。居直りでもない。主張でもない。定型の支援員にありがちな自分の価値観の押し付けになりがち。
 かって私の少年時代(年がわかるな)連合赤軍が仲間をリンチして総括した。連合赤軍という同質性社会が自分達の価値観で人を裁いた。40代の今連合赤軍は自分達の価値観の他、多様な意見があることを受容せず、認めなかった。このような定型の轍をわれわれは踏んではならない。アブノーマライゼーションがこうもり氏の思索と実践の上に成り立ち得た物を、他者の価値観を裁く物にしてはいけない。異論も反論も包括して認め合うしなやかさ、したたかさが会って反骨も反逆も、主張も居直りも成り立つ。
 定型の側にもそれなりの言い分はあるが、彼ら、彼女らが論理の根拠を略しているのでわれわれに伝わらないだけだ。
 かっての何でも反対の社会党のように反対だけで対案なしではいけない。こういうアブノーマライゼーションだとわれわれも生きやすい。定型ともよりよい人間関係が築ける。
ぶじこれきにん
2008/04/23 16:32
前にも言ったように成長する事への疑問、成長して何が得られるのかの問いは定型が作った虚構のある社会に身を置く私も絶えず疑問に思う。
 成長して何が得られるのか。それは何か???行儀良く振舞っても定型もどきを作り出すだけで、定型側が意図する虚構の歯車になるだけだと思う。
 しかし異なる事実認識、自覚を認めず圧殺する論調に私は危惧を覚える。
お互いの認識の違いを認めて多様性と包括性があり、あさみさんが言うわれわれの持ち味を生かして生き生きと生きられる社会作りのコンセプトとしてアブノーマライゼーションがあるのではないか。それは矛盾するようだが、同質性社会のマジョリティ定型の共感が得られるものでなくてはいけない。
 これは極端だが、女性というマイノリティ、最近目立つ外国人労働者、性同一性障がいのひとたち・ホモ・レズのような人たちの共感が得られるものではなくてはいけない。
 自分達らしく生きたいはこの人たちだって同じ思いであるはずだ。男社会、定型社会の押し付けるイメージに辟易しているのはわれわれだけではなく、この人たちも同じ思いだからだ。
ぶじこれきにん
2008/04/23 16:42
それが今から反骨ではない、自覚と事実認識だけだと当事者同志バッシングしている。これではいけない。お互い共通の接点、妥協を見いだして、見方の違いを認めて論じ合う。連帯する事を考えなくては発達障がいの泣き所人の気持ちになれないは乗り越えられないだろう。
 こうもり氏はその辺を突き抜けてしたたかな反逆、反抗、主張を呼びかけている。彼はわれわれの苦手な抽象的論理を定型の人にも訴えられるきちぃうな人材だ。その人が呼びかけるアブノーマライゼーションはわれわれにとって成長とは何か??であり、私自身考えさせられたし、参考にもなった。こういう見方で論争が当事者同志できるようになった。これは評価に値する。
ぶじこれきにん
2008/04/23 16:48
>ぶじこれきにんさん
はぁ? 何を勘違いして語ってんだおっさん。
あんたと俺が同じ「われわれ」「当事者同志」に属さないことなんて、最初からわかっててお付き合いしてるんだけどw
ドードーとら
2008/04/23 18:30
こうもりさんや俺が書いたものに対する、あなたの読み違え方のパターン。あなたのものの言い方のパターン。
これがまた、俺がいつも身の回りで体験している「自閉症者と定型発達者とのコミュニケーションのすれ違い」そのまんまなんですわ。

自閉症者ならば読み違えないはずだ、とは言いませんよ。でも、少なくともあなたのような読み違え方をすることは、ほぼ絶対にありません。
あなたの読み方を一言にまとめると、「こうもりさんは本当はノーマライズされたい、インクルードされたいと思っている。だからこそ、そのための手法としてアブノーマライゼーションと言っているのだ」でしょう? しかも、その確信たるや、こちらが何を言ってもびくともしない。
…というのを読んで初めて、知能が普通程度までの自閉症者は「えっ! あぁ、なるほど。だからぶじこれきにんさんはこういうことを言ってたのか」と驚きつつ納得しちゃったりするわけですよw 次いで、「…にしても、そんな確信が一体どこから来たものなんだろう」と不思議に思ったりします。
自閉症者と定型発達者との違いって、こういう違いなんですよ。
ドードーとら
2008/04/23 18:30
「お互い共通の接点、妥協を見いだして、見方の違いを認めて論じ合う」べし、みたいなきれいごとを言う。
しかしその一方で、意見や見方どころか、ノーマライズされたいインクルードされたいと思わないままに(あるいは思っていたとしてもそれとは完全に別の動機で)アブノーマライゼーションだ、と言う人間がこの世に存在することすら、あなたは認めていらっしゃらない。
違いますか? 聞かれれば違うと答えるかもしれませんね。けど、あなたがこのページにずらずらと書かれていることは、「お前らの存在を認めない」と言っていることと同じ意味なんですよ。
まあ、あなたにはわからないでしょうけど。

あなたがどうしてそんなに自閉症者になりたいのか。あるいは自閉症者に何かをさせたいだけなのかもしれないが、一体何をさせたいと思っているのか。
俺にはそんなことわかりません。けれども、そんなあなたのような人の思惑には乗ってられませーんというのが、こうもりさんの言うアブノーマライゼーションだということはわかります。
まあ、あなたにはわからないでしょうけど。

では。
ドードーとら
2008/04/23 18:30
多分はじめまして、こんにちは。一介のAS当事者です。

一連のコメント、興味深く読ませて頂きました。
正直なところ、言葉が難しくて、ほとんどのコメントは私の頭の中を素通りしていったのですが、

「ほころびのような存在」

この言葉は、なんかすとんと落ちてきました。

今までの私は、「AS者」や「自閉圏者」や「発達障害者」や「障害者」と、仲間意識というものを持つことができない自分というものをよく分かっていたので、あらゆる当事者活動に一切の関心がありませんでした(すみません。でも何か面白そうな部分もありそうだという感覚だけは、何となくありました)。
そして自分が何かしらの発言をするときには、その違和感を出さないように細心の注意を払いつつ、いろいろなものに対して折り合いをつける努力をしていました。

ようやく関心が向きそうです。
これからの展開を、楽しみにしています。
三咲
2008/04/24 13:01
▼三咲さん
>今までの私は、「AS者」や「自閉圏者」や「発達障害者」や「障害
>者」と、仲間意識というものを持つことができない自分というもの
>をよく分かっていたので、あらゆる当事者活動に一切の関心があり
>ませんでした

うみゅ。わしも時々、考えることがあります。いわゆる当事者仲間とか当事者カップルがいたとしませう。しかし、もしお互いが当事者だと知らなかった場合、相手に友愛感情を抱くことができるだろうか、と。怖いことに中学生時代のわたしならば、できなかったのではないだろうかとも思うのです。
どちらかと言えば、わたしによく似た同級生とは張り合う関係になるか、お互いに相手を見下すような関係になっていましたから。

こうもり
2008/04/25 18:42
お互いが当事者だというだけで、相手を信頼できる気持ちになる。悩みを打ち明ける気持ちになれる。分かり合えるつもりになる。これもまたある種の
集団同質性に基づく幻想なのかもしれません。そして、当事者グループというのはある意味、この幻想の上に成り立った現実なのかもしれないと思うこともしばしば。自分が自助グループの運営とかに関わっていて何なのですが、非常に自問しているところであります。
こうもり
2008/04/25 18:42
こんばんは.
アブノーマライゼーションという言葉は笑えますね.

それにしても…

認めたくないものだな…当事者同士の仲間意識ゆえの過ちというものを….

シャア・アブノーマル
2008/04/25 21:23

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