【第2空間】番外編 Bベッテルハイムの悲劇

地域社会,家族を子どもの堕落,頽廃から「守る」ために25歳まで農村で教師によって教育をさせること。これがルソーの私教育論であった。現在の公教育も子どもを学校という施設に集団隔離し、そこで学校で決められたカリキュラムに沿って教育することを主張する。しかし、同時に家庭教育,地域の力を重視し、それらと連携しながら教育を推進していこうとする意味では、
プラトンやルソーの教育論とは異質なのである。

あと、ルソーについてはもう一つ強調しておかなければならないことがある。それは彼が別に子どもを好ましくない状態,危険な存在と見なしていたのではなく、家族,社会を好ましくない状態,危険な存在と見なしていたことがある。なぜこのような問題を持ち出したかというと、20世紀の障害者支援における施設推進論にも大きく分けて2つの潮流があったからである。1つは
当事者を「危険な存在」「好ましくない存在」と見なして、社会からの隔離を主張する推進論である。例えば、アメリカニュージャージー州に開設されたヴァインランド「精神薄弱者」施設の2代目施設長ERジョンストンは施設の目的を以下のように語った。

「私たちの大目的は、この集団(精神薄弱者)を消滅させることです。この目的を達成するためには、遺伝性の狂人・てんかん者・痴愚とともに、神経異常者・盲人・ろう者・結核患者・放浪者・公的貧民・けちな犯罪者・売春婦などを消滅することを必然的に考えていかなければなりません」(1904年の発言)

ジョンストンのような立場を当時は「精神薄弱」脅威論と言った。1910年代にやはり施設事業の推進者であったWEファーナルドもまた、「精神薄弱者は隔離すべき存在であり、彼らをコミュニティーに放置すれば、怠惰・貧困・犯罪・性的不品行・遺伝的退化を社会に蔓延させる原因になる」とした。現在で言えば、社会的隔離(社会の事情による隔離)ということになるだろう。ノーマライゼーションをはじめとする脱施設化・地域生活を推進するグループが反対したのはまさに「精神薄弱」脅威論であった。

 ところが、フロイトの後継者たちによって精神分析学が一世を風靡するようになった戦後から1960年代にかけて、全く別の文脈から障害者の施設推進論を唱えるグループが精神分析学派として誕生した。代表的な論者は実存主義の立場から統合失調(当時は精神分裂病と呼ばれた)について論じたDレインという人物である。治療の世界では20世紀最大のとんでも理論として駆逐されてしまっているが、例えば反ラベリング論のような立場を取る当事者グループの間では今なお若干の影響が残されている。彼は統合失調を人間にとってより高次元の精神状態と見なした。そして、当事者同士の友愛的な環境だけが彼らを癒してくれると考え、
薬物治療を一切行わずに、当事者たちのホームを作った。もちろん、この取り組みはあまりうまくいかなかったのだが、一つだけ注目しておく点がある。それは、この隔離は統合失調者が危険だからという理由で行われたのではなく、社会が統合失調者にとって脅威だからという理由で行われたことである。言うなれば社会脅威論である。そして、これは家族と地域社会を脅威としたルソー教育論と奇妙な接点を持っている。そして、自閉症治療において家族脅威論の観点から施設での治療を主張したのがブルーノ・ベッテルハイムである。

自閉症支援に関する代表的な入門書を紐解けば、ベッテルハイムの名前は必ず紹介されている。しかし、彼が賞賛されるべき臨床家として描かれることはまずない。過去の支援がいかに誤っていたか,いかに誤った自閉理解がなされていたかを語るための反面教師として紹介されるのが、ほとんどであろう。現在の自閉理解や支援の原型を作ったとも言える故エリック・ショプラー(TEACCHの産みの親)はベッテルハイムの直弟子だが、師の説はほぼ全面的に否定している。

さて、ベッテルハイムの著作だが、邦訳になっている本は現在では全て廃刊になっている。
しかし、先日『自閉症 うつろな砦』1・2(みすず書房)が手に入ったので、それを元に彼の理論の概略を述べておこう。彼はローリー・マーシア・ジョイという3人の自閉児を執拗に分析しているが、同時に家族のことを以下のように分析している。

(ローリー)
・母親が離婚し情緒不安定に陥っていた。

・母親の態度が冷静すぎ、ローリーに敵意をつのらせてはならないように防御するような態度。

・母親が現実をつかむことが困難な自己陶酔的な傾向

・父親はローリーに対して無関心。

(マーシア)
・母親が早くから家族の世話をしなければならず、女性として成熟していくことを嫌がっていた。

・父親は預かりっ子であり、養母に厳しくしつけられ、不必要な存在だと感じていた。妻を見ると養母を思い出し、出産には嫌々ながら賛成した

・父親に突然襲ってくる赤面と不安の発作。マーシアが生まれた時にも精神治療を受けていた。父親の不安定さが母親に自分と子供の将来がダメになったと感じさせた。

・マーシアが2歳の時、家族は移転したが、母親が新しい環境に馴染めず、夫と子供に対して拒絶的な態度を取った。

(ジョイ)

・母親が妊娠しても、意識面で特に変化しなかった

・両親とも過去の辛い経験を忘れるように暮らしていたため、心理的に子供を育てる用意も準備もできていなかった。

・ジョイが生まれた後、母親は赤ん坊の面倒を見たがらなかった。

・父親の出兵により、母親は非常に緊張した生活を強いられていた

いずれの記述においても、ベッテルハイムが両親の子供に対する態度に注目していたことがよく分かる。そして、彼は自閉症の要因を以下のように説明した。

「この本を通じて小児自閉症の重要なる要因は子供が存在すべきではないという親の願望によるものだ、という私の信念を再三述べてきた。(中略)同じようなことは文献に説明されている母親の態度の場合も説明できるかもしれない。無関心で両価的な母親の感情で小児自閉症を説明するようになされているが、両親の極端に拒絶的な感情が自閉的課程を歩み出しはじめさせるのだというのが私の持論なのである。」

つまり、「両親の極端に拒絶的な態度」によって子供が防衛機能を働かせたのが自閉症であるという説である。既にカナーの先天的障害説は紹介されており、ベッテルハイムもその可能性を完全には否定していない。しかし、それだけでは自閉症は起こらないと考え、家族の養育態度を問題にしたのである。そして、その治療のためには以下のような処置が大切であると論じている。

「(擁護学校)収容に際して両親と学校との間に一つの約束が交わされた。その約束というのは、社会復帰の訓練の効果が上がるか、或いは反対にどうしても治療ができないという結論に達するまではローリーを学校からは出さないという約束である」

ベッテルハイムに限らず、当時の精神分析の世界ではこのような支援が吹き荒れた。繰り返しになるが、彼らは自閉児を不適切な存在と見なしていたから、学校への隔離を主張したのではない。「不適切」な両親から引き離すことにより、子供から防衛反応が消え、自閉症が治療できると考えていたのである。むしろ、両親に対する辛らつな記述とは裏腹に、当事者に関する記述は現在の事例紹介よりも肯定的な記述が目立つ(これに対抗して成立した現代の支援体系が、できるだけ親の問題を記述から排除しようとしているために、当事者の問題行動に焦点が当たりやすいのかもしれない)。

逆にベッテルハイムは自らの支援プログラムを中止し、家族のもとに引き取られた生徒ローリーのことを以下のように記述している。

「われわれのところを去ってしばらくして、ローリーが精神障害者のための州立病院に入院させられていることを知ったのは、それから一年たってからである。2年後、私はそこへ彼女を訪問し、そして私が最初に出会ったこと時とほぼ同じ状態の彼女を見た。彼女は極端にやせ衰え、誰にも何物にも反応しなかった。」

自閉症を拒絶的な家族に対する防衛反応と見るベッテルハイムから見れば、親がよほど改善しない限り、親元に戻された子供の状況が悪化すると解釈するのは当然の帰結であろう。

歴史にもしもはないが、もしルソーがレインやベッテルハイムの取り組みを見たら、何と言うだろうか?これは予想でしかないが、「青少年を家族や社会による堕落と頽廃から防ぐ教育」と評価していた可能性がある。ルソーの教育論もまた青少年を家族や地域社会から隔絶させる
必要性が説かれているのだから。

地域生活と共生が基本理念となっている現代の障害者支援において、彼らの理念が復権する可能性はほぼない。

(次回、アクセシビリティーに関するルソーの論点について)

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この記事へのコメント

夏椿
2007年11月04日 15:23
私も卒論で少しベッテルハイムのことに触れました。

ベッテイルハイムは収容施設で暮らす子どもたちの観察(研究)から
自閉症の心因説を結論づけたことで、結果、多くの保護者が不必要な
精神分析的治療によって精神的に追いつめられることとなってしまい、
その点において彼は批判されているわけですが、
ただ、自閉症児の中にも、親から拒否され、適切な養育どころか、
肉体的/精神的/ネグレクト含む虐待を受けた結果、状態が悪化して
しまったケースがあったのも事実だろうとも思います。
ベッテルハイムは、そうした症例に注目しすぎてしまった…それが、
「悲劇」かもしれませんね。

施設に収容されている子どもの対応ですが、現代社会においても、
上記のローリーと同様の状態に置かれている子どももいるはずです。
親元から離れて暮らすことが最良の手段という場合もありますよね。
親の養育態度については、もっと問題視されてもいいのではないか…と、
個人的には思います。
夏椿
2007年11月04日 15:27
↑あぁ…読みにくい。
改行がうまく行きませんでした。
修正したくてたまりませんが、術がなく…
お許しください。お詫び申し上げます。
こうもり
2007年11月06日 19:21
▼夏椿さん

昨日からの急病により、レスが遅れました。

ベッテルハイムは確かに複雑な人物です。本人はナチの強制収容所の体験者。強制収容所を経験した臨床家の多くは脱施設化の推進役となっていく中
で、彼だけは全く違う道を歩んでいるんですよね。

家族関係については確かに思うところがあります。自閉の原因が家族環境ではないことは事実なのですが、家族環境に恵まれていない自閉児ならば多いのは事実。時々、親も子もいつ相手を捨ててお互い生きていけるようなサポートが必要かもしれないと思うことがあります。



夏椿
2007年11月06日 22:22
急病とのこと、どうぞご自愛ください。

>自閉の原因が家族環境ではないことは事実なのですが、家族環境に恵まれていない自閉児ならば多いのは事実。時々、親も子もいつ相手を捨ててお互い生きていけるようなサポートが必要かもしれないと思うことがあります。

おっしゃるとおりです。
心理的に解放されるべく「親も子もいつ合い手を捨ててお互い生きていけるようなサポート」の構築は必要だと思います。
さらに、これはそのような状況にある家族(世帯)だけが直面することでもありませんよね。できる限りの愛情を注ぎながら子を育てている両親が病気や不慮の事故で早期に、突然に亡くなってしまった場合にも当てはまることだろうと思います。そう考えると非常に複雑で難しい問題であると同時に、避けては通れないことなのだろうとも思います。
捨松
2007年11月07日 18:25
 あらあら、お大事に…

 今回のベッテルハイムの話をルソーの文脈を使って読んでいくのには、無理があるように感じられました。

 今回の話だけに限ってコメントすると、「現代の支援体系が、できるだけ親の問題を記述から排除しようとしている」からこそ逆に、重要度が増している問題のようにも思えます。ある人が自閉症であることは生まれつきだとしても、その人の症状…というかあり様は、環境によって大きく左右されるわけですから。

 また、ベッテルハイム式でやっていくとなると、教育して世の中に出しても、そこの環境が悪ければローリーになってしまうので、結局は一生ものの隔離でしょう。
 しかしそれでも、隔離政策をあながち否定できない感じもするんです。それはそれで一貫した考え方ではあるので。隔離という言葉が嫌なら、住み分けと言いましょうか。
 それはそれでいいんじゃねぇかな、とか思っちゃうんですよ。自閉症の人がおだやかに過ごしている施設があって、「愛読書は吉本ばななです」みたいな女の人が屋久島行くみたいにしてボランティアに来るとか(笑)。
こうもり
2007年11月07日 22:43
▼捨松さん

どもどもご心配かけました。現在、ハント症候群(末梢性顔面神経まひ)の疑いありということで、顔の右半分が面白く・・・じゃなかった、無表情になっております。

それはさておき本題です。今回ルソーとベッテルハイムを関連づけた理由ですが、施設主義のあり方も思ったより多様なんだなということを語りたかったのです。

今回紹介したジョンストンのように障害者を有害な存在とみなして、その抹殺を目指す施設もある。その逆にレインやベッテルハイムのように当事者を有害な環境から保護すること目指すような施設もある。同じ、施設主義でも
前者はあからさまな迫害が問題になり、後者はパターナリズム(保護主義)が問題になる。この議論は一筋縄ではいかないなと思ったんです。

ルソーの立場は後者(パターナリズム)ということになるのですが、こんなところでルソーの理念を具現化したような支援プログラムが行われていたのかとびっくりしたんです。(いいのか悪いのかは別問題)

わたしのように、「生きている首」になって思索にふけりたい奴はよほど自由のない施設でなければそれでもいいんですけどね。

こうもり
2007年11月08日 23:12
あと、日本人では面白いのが、糸賀一雄。今でこそ、インクルージョン推進論者からけなされることが多いですが、発達保障論の立場から障害児専門教育の推進を主張しました。彼の主張からすると、「障害児を普通児と一緒にすれば、発達がよくなる」なんていうのはばかげているんだ、と。

しかし彼は同時にその当時においてはもっとも急進的な障害児の生の肯定者でもありました。「この子らは世の光なり」という座右の銘は、その後本になって出版されております。

という訳で、施設(コロニー)論を批判的に検討する場合も、細部を検討しておかにゃならんなという結論でした。ではでは

夏椿
2007年11月11日 10:26
糸賀一雄氏に反応しました。私は糸賀一雄氏のコロニーでの長期宿泊実習経験があります。担当教授から「君にはここを選んだから、学べることは学んで来い」と言われ、休日には周辺施設も見学しました。施設論を考えるにあたり貴重な経験ができたのは確かです。
捨松
2007年11月11日 22:50
> 施設主義のあり方も思ったより多様なんだなということを語りたかったのです。

 そうでしたか。そう言われてみれば… うーん。まだいまいちピンと来ません。
 偶然の一致か、夏椿さんのコメントがそのことを言ってくださってますよ。教育は、大人が子供に、またはその道の先輩が後輩に、「君はここでこれを学んでおいたほうがいいよ」っつって、なされていきます。
 だからルソーの教育論=パターナリズムでは話を終えられません。そもそも教育って考え方全体が、一つの大きなパターナリズムなので。
 じゃあ一体、ルソーはどんな教えを守り継いでいこうとしたのか。ここを考えなきゃいけません。そこで<経験知/先験知>という対立軸がある、ということですよね。ですから「ルソーの理念を具現化したような支援プログラム」と言ったら、先験知に関わるものでないといけないと思うんですが…
 この辺、少しフォローしていただけるとうれしいです。実はこの<経験知/先験知>というのを、自閉症を語るときに欠かせない話だと、個人的には思っているもので。
こうもり
2007年11月14日 02:42
すみません。明日かあさってには回答しますので、もう少しお待ちください。今日は13時間労働になっており、さすがに無理がきました。
こうもり
2007年11月15日 23:52
まずは、捨松さんの質問に関する回答です。

>だからルソーの教育論=パターナリズムでは話を終えられません。そもそ
>も教育って考え方全体が、一つの大きなパターナリズムなので。

ルソーのパターナリズムの特色を知るためには以前にもこのブログで紹介したハーバーマスの議論と対比すると分かりやすいかもしれません。ハーバーマスは教育はパターナリズムであることは避けられないと考えていましたが、成長していく過程で別の文化への移行できる可能性が与えられていればよいと考えていました。

それに対してルソーの場合、この移行の可能性を根こそぎ奪おうとします。社会契約論に見られるように市民宗教を利用してルソーの教えに反する考え方をする市民を追放しようとするのもその一つ。護民官を使って世論を管理しようとするのもその一つ。教育についてはこれからの話題なので、浅くしか語れませんが、教師が教えた内容以外を学ぶこと,教師以外の他人が本人に影響を与える可能性を徹底的に排除しようとします。今の教育がパターナリズムだからと言って、それ以外を学ぶことを排除しようとはしないでしょう。ここがやや特殊なところです。
こうもり
2007年11月15日 23:59
>じゃあ一体、ルソーはどんな教えを守り継いでいこうとしたのか。ここを
>考えなきゃいけません。

とりあえず、ルソーの教義の内容は『社会契約論』の中にまとめられております(時間が空きましたが、今までにも書いてきました)。そして、自分の主張が神の作り出した自然状態に適っていることを説き、そのあるべき社会
に適合した子供を育てることが『エミール』の目標と言えるでしょう。

この辺りの詳細は論を進めていかないことには出てこないかもしれません。

こうもり
2007年11月16日 00:02
▼夏椿さん

糸賀施設に行かれたのですか?ちょっと面白そうな経験ですね。おいらも仕事の都合で施設実習することがあるかもしれないので、ちょっと確認してみよっと。
捨松
2007年11月17日 17:20
 ありがとうございました。やっとわかってきました。

> 今の教育がパターナリズムだからと言って、それ以外を学ぶことを排除しようとはしないでしょう。

 ここのところですねー。
 意図的にか意図せずしてかは知りませんし、完全な排除とまで言い切れるかどうかわかりませんが、今の教育も、ある種の事柄を学ばせないようにできていることには違いがない。自分の目にはどうしてもそのように映っちゃいますなあ。
 それで、学ばせたくないことを排除するという点においては、ルソーの教育論は特殊でも何でもないように思えてしまうという…。
捨松
2007年11月17日 17:43
 経験知を取って先験知を一旦捨てれば今の教育みたいになるし、逆に先験知を取って経験知を一旦捨てればルソーの教育論になるしで、ルソーの教育論が特殊なのはやはりそこだろうと思うんです。

 じゃあ経験知と先験知の両方を学ぶこと・学ばせることはできないのかと。これが、続きがあるということで保留しておいたことなんですけど。
 自分はできると思います。文章を拝見していますと、こうもりさんも同じように思っていらっしゃるような感じがします。
 しかし、それはアスペルガーだからかも…という気も、最近するんです。激しく矛盾してしまう経験知と先験知が、矛盾したまんま心の中や頭の中にすぽんと収まっちゃうのって、普通の人の場合ではちょっと考えにくいような。
 こんなような話を少ししてみたかったのでした。
こうもり
2007年11月18日 07:25
現代教育は健全な青少年育成みたいなものを標榜している手前、これは好ましくないという経験はあるのでしょうね。子供がよくやる虫や動植物の虐待,未成年で煙草や飲酒,不純異性行為,都市ならばビルや線路,農村だったら川や山での死と隣り合わせのゲーム。大人を排除した同世代同士の遊び。

これらは学校では禁止されますが、ある程度教育を学んだ者であれば、教育上、子供たちの経験からはなくてはならないものであることを知っています(故河合隼雄科学技術庁長官のような後に政府の要職についた専門家ですらそう言っていた)。むしろ、習い事のように子供を常に大人の監督下に置くことを不健全な教育と見なすことすらあります。

なんだかんだ言っても学校ができることには限りがあり、ヴァーチャルリアルな体験でしかない。そして、学校でできないことは家庭,地域,同世代集団の中で身につけていくしかない。そのために社会体験学習のようなカリキュラムも多数教育の中に取り入れる。この辺りが建前上は現代教育論の基本的理解のような気がします。

捨松さんは現代教育についてどのようにお考えになっていたでしょうか?
こうもり
2007年11月18日 07:38
>激しく矛盾してしまう経験知と先験知が、矛盾したまんま心の中や頭の中
>にすぽんと収まっちゃうのって、普通の人の場合ではちょっと考えにくい
>ような。

「矛盾したまんま」というのがキーポイントでしょうね。学校が教える内容のほとんどは非現実的で社会の実態とはかけ離れています。多くの子どもも矛盾は体験するのでしょうが、適度にルールを変形したり、現実に合わせたりして折れ合っていく。そして終いには矛盾があるということすらも感じなくなってしまうのですが、少なくともわたし自身はそうなっていない。矛盾が頭の中でとぐろを巻いたまま、生活に必要なことだけをやっていき続けている。そんな感覚は確かにしますね。
捨松
2007年11月19日 11:37
 現代教育について、ですか。難しいですね…。
 不満な点が何一つないということでもありませんが、私個人としては大変にいい教育を受けてこれたなぁって感じがするんです。しかし結局それは、リアルもヴァーチャルリアルも矛盾したまんま収まってしまうという自分の特性によるものなんだろうとも思います。ヴァーチャルをベタだと思い込むことができない心性ならば、どれだけヴァーチャルに身を浸したって、自分自身としては何てことはないわけで。
 定型発達者に関して言うと…ちょっとわかんないんですよね。彼らって、どんな体験も何がしか加工して体験しまうでしょ? だから、どんな体験をさせてやったらいいかとか、そもそも教育に何を期待できるのか、何を期待していいのかということが、私にはよくわからないんですよね。

 あ、今さらですけど、ずっと上のほうで「愛読書は吉本ばななです」と書きましたが、正しくは田口ランディでした。失礼しました。
ぶじこれきにん
2007年11月21日 21:51
ベッテルハイムって親の育て方に問題があるから、自閉児は隔離して教育すべきだという考え方で日本の現状だと特別支援教育インクルージョン的ケアをする教育。統合教育の理念と現実からかけ離れた考え方なんですね。
 日本でひところ言われた親の育て方云々で見ていた療育者なんですね。
 こうもり氏のの論理的文章でよくわかりました。今の日本、いや世界の教育界でも採用されない古典的発想の持ち主なんですね。
ぶじこれきにん
2007年11月21日 21:51
ベッテルハイムって親の育て方に問題があるから、自閉児は隔離して教育すべきだという考え方で日本の現状だと特別支援教育インクルージョン的ケアをする教育。統合教育の理念と現実からかけ離れた考え方なんですね。
 日本でひところ言われた親の育て方云々で見ていた療育者なんですね。
 こうもり氏のの論理的文章でよくわかりました。今の日本、いや世界の教育界でも採用されない古典的発想の持ち主なんですね。
ぶじこれきにん
2007年11月21日 21:57
重複しました。削除できるんでしょうか???
 それと論理的展開のこうもり氏の勉強熱心さに関心しました。勉強になる事も多いです。さすがにスローランナーを提唱したこうもり氏ですね。本も読みました。当事者の主張としてあの考えに同感です。
 支援者が否定的になるのは当人を理解すればするほど、否定的見解になるというフォローは納得しました。
 支援者や、学者が自閉症・アスペルガーに否定的見解にうんざりしていたのでこうもり氏の支援者側を理解した見解を本で書いていたので納得。
 発達迷宮論は発達迷宮でコツをつかむプロセスが大事で結果ではないと思います。発達迷宮は個人個人違う歩みをするのでその点をきちんと論じたこうもり氏の意見に同感です。
こうもり
2007年11月22日 06:05
こうもり@やっと薬物治療が終了したぞにょろにょろです。

▼捨松さん
>だから、どんな体験をさせてやったらいいかとか、そもそも教育に何を期
>待できるのか、何を期待していいのかということが、私にはよくわからな
>いんですよね。

イヴァン・イリイチの言葉を借りれば「子供は学校以外のところでより多くのことを学んでいる」というのが本質なのでしょうにゃ。今、子供の教育について大人に何が出来るのかという議論は古くからありますが、大人が抱え込むことの方が危険な場合もあるのです。その意味では現代教育もルソー教育論も同じ過ちを犯してみるかも。

あと、ルソーやプラトンの教育論と現代教育論の違いは何かという点ですが、ある意味では学校を家畜飼育小屋に喩えたプラトンがその本質を捉えていると言えるかもしれません。徹底的に羊を小屋の中で生管理しようとしたのが、プラトン,ルソー。それに対して、時には放牧をしないと羊がうまく育たないと言っているのが現代教育。どちらも羊を望むように教育しようとしている点は変わらないのかもしれませんが。
こうもり
2007年11月22日 06:23
▼ぶじこれきにんさん

どもども、拙著をお読みいただき感謝です。至らぬところもありますが、今後ともよろしくです。

ベッテルハイムの説は自閉症の説明としては明らかに間違いでしょうね。ところが、MIXIでも話題になっていたのですが、愛着形成障害の場合、確かにベッテルハイムの言っていることは間違いじゃないらしいのです(しかも、愛着形成障害でも変則的な発達,視線を合わせないと言った特徴が現れるらしいのだ)。

発達障害概念はその説明の中から家庭環境に関する記述を排除しようとする傾向があるため、虐待児支援などに関わる関係者からは若干悪評もあるようです(杉山登志郎医師も、今年『虐待という第4の発達障害』という本を出版していました)。この辺の情報は今後整理していく必要がありそうです。
捨松
2007年11月22日 16:40
 おお。治療がはかどっているようで何よりですね。

 小屋にせよ放牧にせよ、人が家畜化されるのを防ごうとすると、逆に積極的に保護するしかない…と矛盾しちゃう。確かにルソーの教育論の弱点でもあるでしょうけど、根本的な矛盾を明らかにしている点で、意味があると思うんですよね。
 一方、原因への説はともかく、家畜化されるようにはできてない自閉症の人に対して、積極的保護に出たベッテルハイム。面白いですね~。
捨松
2007年11月22日 16:40
 発達障害と家庭環境・教育環境も、重要なテーマですね。最近特に痛感してます。
 しかし『虐待という第4の発達障害』というタイトルはいただけないなぁ…。ネットで著者による紹介文を読んだくらいで、中は読んでませんけど。

 愛着形成障害ってのもまたややこしい言葉ですねぇ…。
 今ググってみたら、「自閉症児を育てる上ではまずは愛着形成を」みたいなことばかり出てきました。それはそうなんでしょうけど。
 愛着形成障害と言ったときの愛着形成はたぶん、去勢概念に関わる話ですよね。いやー、それはまた、外から見たら自閉症と区別できないくらい(しかも区別する必要があるかどうかも怪しいくらい)似てきそうだなぁ。
こうもり
2007年11月22日 23:18
▼捨松さん

>確かにルソーの教育論の弱点でもあるでしょうけど、根本的な矛盾を明ら
>かにしている点で、意味があると思うんですよね。

そ、そういう意味ではプラトンとルソーは傑出しているんです。教育の本質を的確かつ露骨に表現しているという意味で。

>一方、原因への説はともかく、家畜化されるようにはできてない自閉症の
>人に対して、積極的保護に出たベッテルハイム。

ヴィトゲンシュタインの言葉に「どんな間違った議論でも大胆かつ明快に提示された理論には価値がある」というのがあります。ベッテルハイム説を最大限に評価するとそうなるでしょうね。
こうもり
2007年11月22日 23:30
>しかし『虐待という第4の発達障害』というタイトルはいただけないな
>ぁ…。

多少、出版に片足を突っ込んだ身からすると、タイトルに発達障害という言葉を入れておかないと、発達障害関係者が読まないとふんだんでしょうね。
ただでさえ、教育環境批判にデリケートな業界なので。

>いやー、それはまた、外から見たら自閉症と区別できないくらい(しかも
>区別する必要があるかどうかも怪しいくらい)似てきそうだなぁ。

いや、本当に紛らわしいんです。最近、自助グループでも感じていることなんですが、5年ぐらい前に比べると、依存というかACによく似た特徴を持つ発達障害当事者が増えているような印象を受けます。本人の話を聞く限りでは家庭環境もあまりよくなさそうだし、かといって全く発達障害ではないとは言い切れない特徴を持っています。今後、話はけっこう混乱していくでしょうにゃ。

捨松
2007年11月26日 14:08
 なるほど…。勉強になりました。ありがとうございました。
ぶじこれきにん
2007年12月11日 21:53
こうもり氏も年末俗世間は忙しいでしょうが、3月に書いた状況倫理と規範についての私の意見を読んでください。
 本は何部売れましたか????担当編集者が知り合いですが教えてくれないので・・・・・差し支えなければ教えてください。
こうもり
2007年12月12日 14:20
▼ぶじこれきにんさん

 しーません。師走の忙しさですっかり反応が鈍ってしまいました。コメントありがとうございます。
こうもり
2007年12月12日 14:22
追記

本の方はやっと再版の見込みが立ったといった感じです。ではでは
ぶじこれきにん
2007年12月12日 15:05
当事者の書く教育論は共感する人が多く20,30万部は売れて再版のめどが立ったということでしょう。
ぶじこれきにん
2007年12月12日 15:42
よく考えたら当事者の本はそんなに売れない。4万部~5万部で再版が妥当なところか??
こうもり
2007年12月12日 21:44
いえいえ、ものすごく少なく印刷していたので、まだそんなには売れていません。本当に少しずつ印刷しているといった感じです。

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