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zoom RSS 【間奏】社会衛生学への道(2) フランス社会衛生学の生成

<<   作成日時 : 2015/06/06 08:49   >>

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 貧困労働者を〈社会的脅威〉と見なした上で、治安と衛生を改善するために都市を改造すること。これが19世紀のイギリス都市政策の重要な特徴だった。同様の動きは、革命後の政情不安が続いたフランスでも、19世紀後半に見られるようになる。そして、フランス衛生学から派生した社会衛生学こそが、ハヴロック・エリス(1859−1939)のイギリス社会衛生学の源流となる衛生理論だった。

 今回の考察では、フランス社会衛生学の生成過程を歴史的に明らかにする。特に都市の不衛生という後天的環境要因を重視した衛生学が、なぜ先天的な遺伝的疾患の予防にも注目する社会衛生学に変貌を遂げたのかを明らかにしていきたい。

(1)不衛生と犯罪の都市パリ

 少なくとも19世紀後半まで、パリの不衛生はヨーロッパ諸国でよく知られていた。上下水道の整備とごみの分別収集ができていなかったからである。現在の排水溝(どぶ)は道路の両脇にあるが、19世紀前半の排水溝(どぶ)は道路の中央にあった。市民はその排水溝に家庭ごみと糞尿を投棄した。豚は放し飼いとなっており、馬は糞尿を排泄しながら移動した。路上に投棄された汚物は雨によってセーヌ川に流され、セーヌ川の汚染された水は、上水道がなかったこともあり、そのまま流域住民の飲料水や生活用水となった。ロンドンと同様、19世紀を通じてコレラが猛威を振るい、不衛生な職場では結核が蔓延した。住居も、換気と採光が悪かったため、室内は悪臭を放ち、害虫が発生しやすかった。

 都市の治安の悪さも目立っていた。『レ・ミゼラブル』にも反映されているように、パリには多くの路地裏があり、
官憲の目の届かぬ区画となっていた。フランス革命後のフランスは政情不安定であり、市民蜂起が度々発生した。多くの富裕層は貧民の暴徒化を恐れていた。そして、ロンドンと同様、フランスでもナポレオン3世政権(1852-1870)において、パリの都市改造が本格的に着手されはじめた。

(2)都市衛生政策

 ナポレオン3世は1853年にジョルジュ・オスマン(1809−1891)をセーヌ県の知事に任命し、衛生改善、治安対策、景観美化を一体化させた都市改造を開始した。オスマンは路地裏を可能な限り取り壊し、道幅の広い大通りを南北に走らせた。さらにノートルダム寺院のあるシテ島は改造前、貧民窟と化していたが、オスマンは一流の建築家にルーブル宮やオペラ座の建設を進めた。大通りはショッピング街が立ち並ぶようになり、フランスは同時代の都市の中でも景観のよい都市として知られるようになった。

 物流機能もよくなり、都市の治安対策が取りやすくなったが、敵国に侵略された時にゲリラ戦を展開することができなくなり、軍事機能は低下した。事実、普仏戦争ではパリは陥落し、ナポレオン3世は捕虜となり失脚した。

 衛生という観点から見て、オスマンの都市改造で特に重要なのが上下水道の整備である。遠隔地から水源水を導いて配給して各戸給水を目指すとともに、暗渠式の下水道網を首都の地下に張り巡らせ、回廊式下水道を完成させた。この取り組みは飲料水を通じての感染を引き起こすコレラに対して一定の有効性があったと言われている。

 一方、オスマンの都市改造では路上に投棄されるゴミの問題が未解決のまま残された。また、オスマンは自らの傑作である回廊式下水道に人糞で汚すことに反対したため、排泄物の処理も後世の解決に委ねられることになった。

 残された都市衛生改革に取り組んだのは、第三共和政下(1870-1940)で1883〜1896年までセーヌ県の知事を務めたウジェーヌ・プベル(1832-1907)だった。1892年のコレラ流行を受けて、プベルは1894年に建物を直接下水道に接続させた際に生ずる費用を家主や管理者が負担する条例の発布にこぎつけた。この条例により、全廃水下水道放流方式(トゥ・タ・レグ方式)の敷設が義務づけられた。全廃水下水道放流方式は、生活廃水と糞尿、清掃水、雨水などを一緒に排水する方式であり、固形糞の下水道への排水が初めて認められた。

 さらにプヴェルが熱心に取り組んだのは、ゴミ対策だった。知事への赴任1か月後にプベルは知事令による金属ないしはバケツのゴミ箱を義務づけた。ゴミ箱の形状、容量、設置場所は細かく規定され、産業廃棄物の投棄禁止、廃品回収業者によるゴミの転売、ゴミ箱への建物の住所明記、ゴミの分別収集などが徹底された。プベルの衛生改革により、パリは不衛生都市の汚名を返上することができたとされる。フランス都市衛生改革はプベルによって一応の完成を見たと言っていいだろう。

(3)細菌の発見

 19世紀の最後の四半期に、ヨーロッパ衛生学において画期的な出来事があった。細菌の発見である。1875年にドイツの医師ロベルト・コッホ(1834-1910)は炭疽菌を光学顕微鏡によって発見し、翌年には純粋培養に成功した。コッホは

1.ある一定の病気には一定の微生物が見出されること
2.その微生物を分離できること
3.分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こせること
4.そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること

という四原則を提唱し、19世紀の脅威とされた結核菌(1882)、コレラ菌(1883)を相次いで発見した。コッホの影響を受け、1975年以降、ヨーロッパの代表的な医療先進国において細菌の発見が相次いだ。

 代表的な細菌としては、ハンセン氏病(1875、ノルウェー)、マラリア(1880、フランス)、腸チフス(1880、ドイツ)、破傷風(1884、ドイツ)、ペスト(1894、フランス、日本)、赤痢(1898、日本)、梅毒(1905、ドイツ)、百日咳(1906、フランス)、チフス(1909、フランス)などが発見された。

 また、フランスではコッホとほぼ同時期にルイ・パスツール(1822-1894)が現れ、フランス細菌学に大きな影響を与えた。パスツールは細菌の発見についてはそれほど大きな貢献はしなかったが、ワクチンの開発において重要な貢献をしている。彼は、狂犬病の研究を通じて、人間は弱毒化した微生物を接種することで免疫を得ることを発見し、1885年に狂犬病のワクチン開発に成功した。

 細菌やワクチンの発見はすぐに感染症の治療法の開発に結びついた訳ではない。パスツールの発見も同時代の医学にすぐに受容された訳ではなかった。しかし、19世紀と20世紀の転換期の相次ぐ発見により、科学の力によって人間が感染症を解明し征服できるのではないかという楽観論が広がったのは事実である。

 そして、1887年にはパスツール研究所を創設し、同研究所はフランス細菌学の一大拠点となった。そして、20世紀の初頭、パスツールの後継者によって社会衛生学の体系が提唱されることになる。

(4)衛生と遺伝

 そろそろ本題に入ろう。フランスでもイギリスと同様、腐敗物から発生する瘴気によって感染症が発生するという非接触感染説の影響は強かった。少なくとも19世紀末期になるまでコレラや結核は非接触感染説に基づき解釈され、対策も立てられていた。一方、フランスではイギリスには見られなかった衛生理論と遺伝理論の結びつきが見られたことは特筆に値する。

 前回まで取り上げたナイチンゲール、チャドウィックらイギリスの衛生改善運動家は、少なくとも遺伝に言及することはなかった。彼女/彼らは不衛生な都市、衛生環境が都市住民を〈虚弱〉な体質に〈退化〉させるとは考えたし、ナイチンゲールは明らかに不衛生な住居環境は家系の衰退にもつながると考えていた(『看護覚え書』参照)。しかし、両者ともダーウィン進化論以前に自らの思想を完成させていたため、ダーウィン進化論の影響はあまり見られない。また、影響があったとしても、隔世遺伝を〈退化〉の要因と考えるダーウィン進化論が、都市の不衛生を<退化>の要因と考える衛生学に取り入れられる余地はなかった。

 しかし、20世紀初頭までのフランスではラマルク進化論の影響が強かった。ラマルク進化論では環境によって獲得された形質は、そのまま子孫に遺伝するという考え方がなされる。不衛生な環境によって獲得された〈虚弱〉な体質は子孫に遺伝し、家系の衰退を招くという考え方が少なくとも1850年代には見られたのである。

 典型的な例として、後の〈精神薄弱〉〈精神病質〉〈発達障害〉などのカテゴリーの源流の1つとなった〈変質〉カテゴリーの提唱者ベネディクト・モレル(仏,1809−1873)の議論を取り上げてみよう。モレルは都市住民の〈退化〉という現象を以下のように解釈した(1857)。

 都市の過度の飲酒、不道徳、貧しい食生活、不健康な住居及び職場環境、有害な土壌成分、薬物およびアルコール中毒、劣化した穀物の接種により、都市住民の身体は疲弊・衰弱している。後天的に獲得された虚弱な体質は遺伝的に次世代に伝わり、次世代の人々も様々な症状が発生しやすくなる。変質した一族は生殖力が衰え、やがて死に絶えることになる、と。

 子孫の〈退化〉を防ぐためには、衛生環境の改善を図らなければならないというのがモレルの問題提起であり、
優生学にように〈変質者〉の生殖管理を提言していた訳ではない。モレルが想定する〈変質者〉は生殖力が衰え、繁殖する可能性のない人々だったため、生殖管理は必要とは考えられていなかったためである。一方、モレルももう少し後の時代の優生学者たちも、子孫の〈退化〉を防ぐための取り組みが必要とした点では見解が一致していた。

 ラマルク進化論に立脚したフランス衛生学はイギリス衛生学以上に、遺伝という観点が採用されやすかったと言えるだろう。 

(5)sanitationからhygieneへ 社会衛生学の生成

少し概念の整理をしておこう。太田 省一によれば、イギリスのチャドウィックやナイチンゲール、フランスのオスマンやプベルによって取り組まれた清潔な環境の整備によって病気または不健康の予防を図る営みはsanitationといい、一方、健康の維持・増進を図ることに関する様々な次元の知識や実践をhygieneという。日本語ではどちらも<衛生>と訳されるが、hygieneが清潔な環境の整備以外の取り組みにも着手するのは言うまでもない。
もう一点重要な相違は、hygieneには社会の発展の促進、あるいは退化の防止という目的が明確に組み込まれているという点である。そして、社会衛生学はhygieneに属する知の体系であった。 

 社会衛生学という分野は20世紀になってから突如出現した訳ではない。フランスでは1870年代ごろに登場したが、漠然と結核、アルコール依存症、性病などの〈社会的悪疫〉の撲滅を目指す知識と実践という意味で使用されていた。例示された疾患は主に不道徳、不衛生な生活によって蔓延すると考えられており、細菌学のような生物的次元の取り組みだけでなく、社会的次元の取り組みも必要とされた。

 19世紀後半のフランスでは他のヨーロッパ先進国に先駆けて、少子化が進行していた。今では先進国の少子化はほぼ当然視されるし、当時であっても人口の過剰な増加を警戒する新マルサス主義者からは「人々が計画的な産児調節を行うようになった好ましい傾向」と見なされていた。しかし、前述したラマルク進化論の影響を受けた論者には、<国民の退化>の兆候と映った。新ラマルク主義者の人口論では、少子化は生殖力の衰え=退化と解釈されることがあったからである。20世紀初頭には〈国民の退化〉を予防するための新興学問が次々と誕生した。新生児の〈質〉の向上を目指す〈小児養殖学〉、フランス優生学もそれらの例である。これらの学問は<国民の退化>を引き起こすような環境を改善することを通じて、人口の<質>の向上を目指した。

 社会衛生学の体系化も前述したパスツールの後継者であるパスツール研究所の所長エミール・デュクロー(1840−1904)によってこの時期に進められた。デュクローによれば社会衛生学とは「疾病そのものではなく、疾病を生み出す社会的背景を直視するもの。すなわち、疾病が社会に及ぼす打撃や、あるいは社会にある程度備わっている自己保全能力および疾病への対抗能力に着目しながら、疾病に取り組む学問」だった(『比較優生学史』参照)。

 デュクローの体系は社会有機体論の影響が見られる。社会を人体に見立て、〈社会の健康〉を損なう要因を解明し除去するとともに、社会が持つ自己免疫力の積極活用するための取り組みが謳われた。<国民の退化>を防ぐことも、<社会の健康>を維持するためには不可欠な取り組みと位置づけられた。

 <国民の退化>を防ぐためにデュークローが提案した取り組みの1つは、結婚時の健康証明書提出の義務化だった。これは、虚弱な体質を獲得した〈退化者〉が体質を子孫に遺伝させることを制限する狙いがあったと考えられ、同時代の優生学の主張にも接近している。ここに優生学は衛生学(hygiene)の一分野としての地位を獲得したのである。以後、社会衛生学から民族衛生学に至るまで、<遺伝的疾患>の予防は衛生学(hygiene)が対象とする重要な取り組みの1つと位置づけられた。

 最後に、 デュクローがイギリスのH.エリスに多大な影響を与えたことはすでに述べたが、エリスはデュクローの何に注目したのだろうか。エリスが注目したのはデュクローの性病に対する言説だった。デュクローは性病を道徳的非難の対象としてみることを戒め、科学的態度で分析することを主張していた。この点が性の科学化を目指していたエリスにとって重要な意味を持っていたのだろう。デュクローにとって生殖の管理はあくまで社会衛生学の一分野だったが、エリスにとっては社会衛生学の主題だった。

 エリスの社会衛生学は次回取り上げることにしよう。舞台は再びイギリスに戻る。


 
【参考文献】
Morel,B.A.,1857, Traité des dégénérescences physiques: intellectuelles et morales de l’espèce humaine, Paris, Jean-Baptiste Baillière

宮崎 かすみ,2004,「変質論とヨーロッパの内なる他者」,横浜国立大学教育人間科学部紀要.U 人文科学6

Ellis,Havelock,1912,The Task of Social Hygiene,Constable & Company

荻野美穂編,2000,『編集復刻版 性と生殖の人権問題資料集成』第2巻

太田 省一,1994,「社会衛生の登場 ―H.エリスの議論を手がかりとして」,和洋女子大学 文系編34

Adams,M.B.,Schneider,H.S.,1990,The Wellborn Science:Eugenics in Germany,France,
Brazil,and Russia, Oxfordshire,Oxford University Press(=1998,佐藤 雅彦訳,『比較「優生学」史 ―独・仏・伯・露における「良き血筋を作る術」の展開』,現代書館)

大森 弘喜,2014,『フランス公衆衛生史 19世紀パリの疫病と住環境』,学術叢書

Émile Duclaux、1902, L'hygiène sociale、Paris, Félix Alcan

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