グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論

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zoom RSS 【間奏】社会衛生学への道(1) 脅威としてのイギリス貧民街

<<   作成日時 : 2015/04/27 19:46   >>

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(間奏とは思えぬほど話が長引いている。。。しかし、じっくり考えながら話を進めていくぞ〜。)

 ヘレン・ケラーの〈精神薄弱〉に対する考え方はアメリカ産児調節運動の影響を受けていることを前回の考察で述べた。そして、産児調節運動が理論的基盤としていたのが、イギリス社会衛生学であることも明らかにした。今回と次回の考察では、20世紀初頭のイギリス社会衛生学形成までの動きを、19世紀に遡って歴史的に考察してみることにしよう。

(1)優生学史の中の社会衛生学

 これまでの考察の中では優生学の理論は一枚岩ではないと断りつつ、具体的にどのような理論があったのかについて明確に述べてこなかった。ここで一旦、20世紀初頭の優生学における3つの主流な考え方を整理しておこう。

@人種改良学派

 中心となったのはアメリカのアングロサクソン系心理学者たちだった。アメリカにおける〈精神薄弱者〉の増加は19世紀後半以降に移住してきた後発移民(例えば、アイルランド系、イタリア系、ユダヤ系、東欧系)の増加によるものだとの前提に立ち、移民の入国制限、〈精神薄弱者〉の施設収容および断種手術の実施を主張した。知能を生得的かつ固定的と信じ、知能検査に絶対的な信頼を置いていたため、知能検査によって〈精神薄弱者〉の特定が可能だと信じて疑わなかった。遺伝については、メンデルの遺伝法則を基礎理論としていた。第一次世界大戦後、アメリカの国際的地位が相対的に向上したため、世界的な影響力を有するに至った。

Aドイツ精神医学派

 中心となったのはドイツ語圏の精神科医たちだった。19世紀のイタリアの精神科医C.ロンブローゾの影響を受け、天才と狂気の連続性に注目したため、断種政策には賛成したものの、遺伝が十分に解明されていない、天才が生まれる可能性を潰してしまう危険性があるという理由から、慎重な態度を示した。『天才の心理学』のE.クレッチマー、〈自閉的精神病質〉の提唱者H.アスペルガーもはこの立場に属している。

B社会衛生学派

 中心となったのは、ヨーロッパの自由主義的な慈善事業家、婦人運動家、あるいは社会主義の影響を受けつつも資本主義経済下での漸進的な社会改革を主張した社会改良主義者たちだった。自国の産業の発展のためには労働者の〈質〉の向上が欠かせないという観点から、貧困状態にある労働者の衛生改善に熱心に取り組んだ。20世紀に入ると、過程で貧困家庭の多産を防ぐための産児制限(人口の量のコントロール)、性感染症、遺伝的疾患、結核など、子孫にも悪影響を残すとされた〈社会的悪疫〉の撲滅(人口の〈質〉のコントロール)を重視するようになり、生殖への介入に乗り出した。前提とする遺伝理論はダーウィン進化論の場合(イギリス、イタリアなど)と、ラマルク進化論(フランスなど)に分かれた。これまで取り上げたことのある人物ではイタリアの精神科医、教育運動家のM.モンテッソーリに大きな影響を与えている。

 社会衛生学は〈社会的悪疫〉全般を扱う衛生学の一分野であり、遺伝的疾患のみを扱う分野ではない。しかし、20世紀初頭には優生学を取り込み、遺伝的疾患の〈予防〉にも一役買うことになる。なお、民族主義運動の高まる1920年代以降、階級に焦点を当てていた社会衛生学は人種、あるいは民族の〈質〉の向上を目指す人種衛生学、あるいは民族衛生学に変貌を遂げることになるが、それは後の話である。

 労働者問題から出発した社会衛生学派は貧困問題の取り組みに熱心だったが、だからこそ優生政策の実行部隊となる可能性が高い立ち位置にいたとも言える。前回紹介したM.サンガーが貧民街の移民たちを対象に産児制限運動を進めていく過程で優生学に接近したのもその一例である。また、20世紀前半の福祉国家が経済のコントロールだけではなく、人口の量と〈質〉のコントロールにも熱心だったことを忘れてはならないだろう。そこにも社会衛生学の遺産を見出すことは可能である。

(2)不衛生と不道徳の都市 1830〜1840年代のロンドンとマンチェスター

 イギリス社会衛生学の前史に遡ってみよう。社会衛生学は20世紀初頭にフランス、ドイツでも出現しているが、イギリス社会衛生学の形成を知るためにはイギリスの事例を検討する方がよいだろう。

 1830年代のロンドン、マンチェスターのような大都市は資本家階級と労働階級の間に異様な緊張が漲っていた。理由は3つあった。1831年に始まるコレラの流行、1832〜1839年のチャーティズム運動、1834年の新救貧法の試行が主な原因だった。順を追って概観していこう。

 コレラの流行はイギリスが世界中に植民地を持ち、人の移動が活発になったことにより生じた。インドのガンジス川流域のコレラ菌は1831年にイギリスに上陸し、おびただしい犠牲者を出すことになった。当時のイギリス医学がコレラの予防について十分な知識を持っていなかったことも犠牲者の拡大に拍車をかけることになった。コレラ菌は経口感染する。従って予防するためにはコレラ菌が発生した水源を突き止め、飲料水や料理に利用することを停止する必要があった。しかし、当時のイギリス医学では、コレラ菌は汚物から生じる瘴気によって感染するという空気感染説が一般的であり、有効の対策を取ることができなかった。中流階級以上の人々は路上に腐敗した残飯、糞尿が散乱していた貧困街、換気や採光ができないため異臭が立ちこめ、虫が大量に発生していた貧困者たちの住居に疑いの目を向けた。
 
 1854年のコレラ流行の際にはイギリスの外科医ジョン・スノウ(1813−1858)が細菌の存在を知らないまま疫学調査により経口感染説を唱え、これらが流行している地域の水の使用を停止することを主張していた。しかし、瘴気説が撤回されることはなく、19世紀を通じて有力な説の1つだった。前回紹介したF.ナイチンゲールもまた瘴気説の支持者であり、細菌の存在を信じていなかった。少なくとも、1830年代の段階では貧民街から発生した瘴気が空気を通じて都市全体に広がったというのが医学的な定説だった。

 次にチャーティズム運動である。1830年代の段階では認められていなかった労働者の選挙権と議会改革を求める運動だったと言えるだろう。イギリスでは1815年から中産階級者による選挙権の拡大と議会改革を求める運動が始まっており、選挙権は次第に拡大してはいた。しかし、労働者への選挙権拡大は遅れ、1832年の段階でも選挙権は認められていなかった。1830年代から急進主義団体が中産階級の指導から独立して、独自に選挙権の拡大と議会改革の運動を開始した。運動は団体の離合集散を繰り返しながら1842年まで継続したが、その間に法律の範囲内での運動を目指す道徳派と武力蜂起を辞さない実力派に分かれていった。1940年にはウェールズの労働者を中心に数千人規模の武装蜂起が起こり、運動を理由にした入獄者の解放を要求したが、事前に通報を受けていた軍隊の警察によって鎮圧される事件も発生した。

 この運動は資本家たちにも脅威を与えた。〈無知〉で道徳の欠如していると見なしていた貧困労働者たちが、雄弁者たちに先導されて暴徒化するのを恐れていたのである。

 そして、最後に1832年の新救貧法施行である。1795年のスピーナムランド法では、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当を支給する院外救済が実施されていた。しかし、救貧手当を支給されることに便乗して雇用主が賃金の引き下げを行ったこと、救貧手当があるためにどの程度働いても収入が変わらないことから労働者の労働意欲の低下が生じるなどの弊害が生じた。特に労働者の労働意欲低下に対する救貧税納税者の反発は強く、新救貧法では院外救済が廃止され、救貧手当は停止された。賃金が低下したまま救貧手当が停止された労働者の生活は苦しくなり、不満は増大した。

 1830〜1840年代のイギリスの労働者の生活についてはイギリス民衆教育の父と言われたケイ=シャトルワース(1804-1877)の『マンチェスターの木綿工場に雇用された労働者階級の道徳的身体的状態』(1832年)、後にマルクスの盟友となったF.エンゲルス(1820-1895)の『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)に詳しい。

 ケイ=シャトルワースの報告は革命予防のために労働者の子弟が煽動されないように教育することの必要性が説かれており、エンゲルスの報告では労働者の生活状況に無関心な資本家のあり方が問題にされており、両者の結論は相違している。しかし、@貧民街の労働者の生活が極めて過酷であるA貧困街の衛生環境が劣悪であり、虚弱な体質、心身の損傷を抱えた労働者が多いB幼少時より労働に従事し教育を受けていない児童が多数存在するC道徳が身についておらず犯罪、過度の飲酒、浪費に走る者が少なからず存在するといった認識では一致していた。

 特に治安と衛生をどのように改善するのかが、多くの慈善事業家、社会主義者にとって重要な課題となっていた。

(3)エドウィン・チャドウィックの社会改革構想

 都市の貧困街の衛生状態と治安の悪さをどのように解決すればよいのか?この課題に対して具体的な解決案を提示しようとしたのが、ベンサムの助手であり、後にイギリス近代衛生改革の父と称されたE.チャドウィック(1800-1890)であった。労働者からは評判が悪かった1834年新救貧法の起草を行った人物でもあった。

 チャドウィックの事績として有名なのは衛生改革だが、彼の基本的な考えを知るために治安対策の方から紹介していこう。1829年にチャドウィックは〈予防警察〉という構想を明らかにした。現在でいうパトロール活動のことだと考えればよいだろう。都市の貧民街の治安が悪いという認識があったにも関わらず、当時の貧困街ではパトロール活動は実施されていなかった。チャドウィックは治安対策は犯罪が発生した時だけに対応するだけでは不十分であり、普段から防犯活動が実施されていなければならないと考えていた。具体的には地域の巡視、防犯のための啓発活動などであった。現在の防犯活動を知る読者には自明のことと思われるかもしれないが、当時は必ずしも自明のことではなかったのである。

 治安における予防のまなざしは、彼の衛生改革構想にも反映されることになった。『大英帝国における労働人口集団の衛生状態に関する報告書』(1842年)において、チャドウィックは自らの衛生改革構想を明らかにした。綿密な実態調査を行った上で、疾病予防のため、ゴミの収集、下水道整備を推進することを提案した。彼の構想はナイチンゲールと同様、瘴気説に基づいており、同時代に人々を恐怖に陥れたコレラの予防にはつながらなかった。ただし、彼の構想の影響を受けて、都市の衛生改善が進んだのは事実であった。

 チャドウィック自身は周囲との軋轢を起こしやすい彼の性格が災いして、衛生行政に長く関わることはできなかった。彼が衛生行政関わったのは1848〜1854年の短い期間に過ぎない。しかし、都市の隅々を監視しながら、犯罪と伝染病を予防しようとする彼の構想はベンサムのパプティノコン(一望監視システム)と同様、注目する必要がある。ベンサムのパプティノコン構想は監獄のような施設内に限定されたテクノロジーだったが、チャドウィックのそれは都市を隅々まで監視し〈異常〉を発見し予防することを目指したという意味で、ベンサムの構想を一歩推し進めたものだった。防犯対策と地域保健衛生の原型はチャドウィックによって描き出されたと過言ではない。

 もっとも、優生学、精神保健衛生という視点から見た場合、このテクノロジーは手放しでは歓迎できない側面がある。構想された制度は社会防衛のために〈異常者〉を特定し、監禁、断種の対象とするために利用することができてしまうからである。チャドウィック自身、貧困街の労働者たちの道徳の退廃を問題視しており、彼の治安対策と衛生改革の構想はどこか社会防衛的な性格を有していた。

 地域に張り巡らされた監視網は生活改善にも社会防衛にも利用できる。チャドウィックの構想はある意味で20世紀を先取りしていたとも言えるだろう。

 工場法による児童労働や労働時間の制限、革命予防のための貧困家庭の子どもへの教育保障、公衆衛生や労働安全衛生の改善。時間はかかったが、イギリスの慈善事業家や社会改良運動家による労働者の質の向上は推進されていった。社会衛生学はその次の段階で20世紀初頭に東登場することになる。

【参考文献】
Foucault,M.,1977, ≪El nacimiento de la medicina social≫(《La naissance de la médecine sociale》;trad.D. Reynié ) Revista centroamericana de Ciencias de la Salud, no 6, janvier-avril(=1994,小林 康夫・石田 英敬・松浦 久輝訳,「社会医学の誕生」『ミシェル・フーコー思考集成Y』,筑摩書房)

Foucault,M,2004, Sécurité, territoire, population : Cours au Collège de France (1977-1978),Paris, Seuil(=2007, 高桑 和已訳,『ミシェル・フーコー講義集成7 コレージュ・ド・フランス講義1977−1978年度 安全・領土・人口』,筑摩書房)

Chadwick,E.,1842=1965, Report on the Sanitary Condition of the Labouring Population of Great Britain, Lothian,Edinburgh University Press(1990,橋本 正己訳,大英帝国における労働人口集団の衛生状態に関する報告書,日本公衆衛生協会)

Engels,F.,1845, Die Lage der arbeitenden Klasse in England, Leipzig, Otto Wigand(=一條 和夫・杉山 忠平訳, 『イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター 』上下,岩波文庫)

山根 祥雄,1987,「ケイ=シャトルワースの貧民教育論」,大阪教育大学教育学論集16

要田圭治,2009,『ヴィクトリア朝の生権力と都市』,音羽書房鶴見書店




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