グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論

アクセスカウンタ

zoom RSS 【間奏】ヘレン・ケラーと〈黒いコウノトリ〉A 衛生、産児調節、優生学

<<   作成日時 : 2015/03/08 16:55   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

 ヘレン・ケラーが少なくとも1915年の段階で〈精神薄弱者〉を社会の〈お荷物〉〈脅威〉〈潜在的犯罪者〉と捉え、〈精神薄弱者〉本人の同意を得なくても、医師の見地に基づく消極的安楽死は認められると考えていたことは前回確認した。ケラーが医療の科学性に絶大な信頼を置いており、優生学の影響を強く受けていたことはほぼ確実である。

 1910年代のケラーは当時の婦人運動の影響を強く受け、反戦運動、婦人参政権、労働運動にも積極的に発言していた。しかし、ケラー自身が婦人運動において独創的な議論を展開していた訳ではなく、同時代の婦人運動家の理論を積極的に受け入れていたという段階に止まる。今回の考察では、ケラーが同時代のどのような思想の影響を受けて、消極的安楽死を支持したのかを明らかにする。

(1)女性衛生学の祖ナイチンゲール

 20世紀初頭の婦人運動家にとって、19世紀イギリスの看護学の体系者F.ナイチンゲール(1820-1910)の影響力は絶大だった。ナイチンゲールについては1854年から1856年にかけてクリミア戦争に従軍し、戦地病院で献身的な看護活動を行ったというエピソードがよく知られている。しかし、<献身的>という部分が強調されすぎ、看護、衛生分野で後世にどのような影響を与えたのかは意外に知られていない。

 ナイチンゲールが従軍看護師として現場で活躍したのは2年程度だった。その後は戦争の後遺症から慢性疲労症候群かPTSDに罹患し、自宅療養しながら余生を過ごしていた。では、ナイチンゲールは自宅療養していた後半生をどのように過ごしていたのだろうか。

 ナイチンゲールが最初に着手したのは、戦争中の看護活動についての統計学的調査だった。ナイチンゲールは同時代の女性としては珍しく統計学の知識が豊富だった。戦争中の看護活動に対して男性医師から批判が提起された後、ナイチンゲールは戦争中の看護記録に基づき、病院に搬送された兵士たちの死亡率を調査し、反論を試みた。その結果、ナイチンゲールが赴任した直後の1955年2月の段階では死亡率は約42%まで上昇していたが、院内の衛生環境の改善を行った結果、同年4月に14.5%、5月に5%になったことが明らかになった。統計的には病院内の死亡率の高さは戦傷ではなく、病院の劣悪な衛生環境にあったことが推測された。ナイチンゲールは細菌の存在を信じていなかったが、感染の予防と治療環境の整備を看護師の重要な任務と考え、衛生学への女性の参入という道を切り開いた。

 次に着手したのは、病院施設の設計だった。戦地病院での経験に基づき、ナイチンゲールは院内感染の防止、看護師が患者の状態を観察しやすくするために最善の設計を追求し、『病院覚え書』(1863年)において理想的な病院の設計を論じた。衛生面では空気感染を防ぐために風通しをよくすること、窓から光が入るようにすること、院内の清潔さを保つことが重視された。看護面では、看護がしやすいようにオープンスペースにすること、移動しやすいように高層建築にしないことなどが重視された。経済面ではナイチンゲールが想定していたのが戦地病院や救貧病院だったこともあり、できるだけ予算がかからないように簡素な設計にすることが提唱された。
観察のしやすさについては一望監視システムなのではないかという批判が後世なされたが、それ以外の部分については現在の病院の設計にも通じるところがある。

 さらに考察は地域看護にまで及んだ。ナイチンゲールは既に『看護覚え書』の中で、イギリスの乳幼児の死亡率が高いことを問題にしていた。彼女によれば当時のイギリスでは7人に1人の乳児が1歳までに死亡しており、都市部では5歳までに半数知近くの乳幼児が死亡していた。ナイチンゲールは都市の衛生環境以外に、住居で子守をする女性たちの衛生面での知識の欠如を問題にした。そのため、都市の衛生改善には女性が衛生についての知識を獲得することが不可欠と考え、女子に対する衛生教育の普及を図った。さらに、女性だけで構成される地域看護師が都市の衛生改善を推進する上では不可欠と考え、看護師の養成に力を入れた。

 衛生分野で男性医師と対等に渡り合ったこと、看護師という19世紀の段階では女性限定の職業領域を開拓したこと、女性は無学であってはならず衛生についての知識を学ぶ必要性を説いたことによって、ナイチンゲールは20世紀初頭の婦人運動家から、一目置かれる存在だった。後述する産児調節運動の担い手マーガレット・サンガー(1879-1966)が地域看護から出発したのもこのことと無縁ではないだろう。

 一方、ヴィクトリア王朝時代の知識人だったナイチンゲールには生殖に関する言及はあまり見られない。ヴィクトリア王朝時代の性道徳は女性が性について論じることを禁圧していたからであった。また、主な関心事が衛生環境の改善にあったため、遺伝に対する関心は低く、同時代のダーウィン進化論、ゴルトン優生学にもそれほど言及していない。『看護覚え書』では都市の劣悪な衛生環境を放置することで、家系の衰退が引き起こされると警告しているが、優生学者のように遺伝を問題にしていた訳ではない。看護分野に優生学が溶けこみ始めるのはナイチンゲールの晩年にあたる20世紀初頭のことである。


(2).ベルと優生学

 H.ケラーのキーパーソンとしてよく名前が挙げられる人物に現在では電話の発明家として知られるアレクサンダー・グラハム・ベル(1847-1922)がいる。母と妻が聾者であったこと、父親が聾教育における口話法の専門家であったこともあり、ベルは終生、聾教育に関心を示し続けた。ケラーの父親から手紙を受け取ったベルがパーキンス盲学校と連絡を取り、盲学校の卒業生だったアン・サリヴァン(1866-1936)が家庭教師としてケラーの教育に関わるようになったエピソードは有名である。

 一方、現在のろう文化において、ベルは極めて悪名高い人物として描かれる。ベルは聾者を口話の世界に招き入れることにこだわり、時に手話を厳しく弾圧した。ベルが設立した聾教育施設では、聾児たちの手話を禁止するために手を縛ることまであったと言われている。また、ベルは19世紀末から20世紀初頭にかけて極めて影響力を持つ優生学運動の担い手だった。1883年の米国科学アカデミーのおける講演で、ベルは両親が先天聾だった場合、聾者の子が生まれる可能性が高いので、そのような婚姻は避けるべきだと主張した。( 参考文献参照)ベルは聾者の生を否定していた訳ではなかった。現に生きている聾者に対しては手厚い教育が必要だが、聾者が新たに生まれてくることについては水際で防止しなければならないというのが、ベルの優生学的立場だったのである。
 
 ベルの聾教育観、優生思想はケラーにも重要な影響を与えた。盲・聾・唖の三重苦を乗り越えるというケラーに対する克服目標はベルの教育観に沿うものだった。ケラーは口話を身につけることを目指し、手話を習得、使用することは生涯なかった。当然のことながら手話を使用する聾者と接触することもなかった。父親が南北戦争で活躍したアングロサクソン系の名門の出身だったこともあり、人種改良学にはそれほど抵抗を示さず、結婚相手は「アングロサクソン系の白人がいい」と言って憚らなかった。恩師であるサリヴァンは人種改良学が劣ると考えていたアイルランド系の救貧院出身者であり、決して〈よい血統〉とは言えなかったのだが、サリヴァンが先天盲ではなく後天盲だったため、問題にはならなかったようである。そして、ベルから受けた優生学的影響は、サリヴァンの夫(後に離婚)の影響を受けて社会主義運動に傾倒した後も完全に払拭されることはなかった。ケラーはアメリカ社会党内でも、医療に絶大な信頼を置き、優生学運動の担い手となった婦人運動家たちと意気投合したのである。

(3)サンガーと産児調節運動

 〈黒いコウノトリ〉について言及する直前の1915年11月26日、ケラーは社会主義系の『コール』紙の紙面において、産児調節運動家のM.サンガーを擁護するコメントを寄せていた。

 産児調節運動とは性、避妊方法についての知識を男性あるいは女性に広く普及し、自発的な産児調節を実施することにより、多産を防ぎ、手厚い教育と衛生管理を行うことにより、健康で〈質のよい〉子孫を残すことを目的にした運動だった。以前取り上げたマリア・モンテッソーリの教育実践もこの延長戦にあると言っていいだろう。
(参考記事参照)。母親が多産だったため体調を崩し、自らも結核を抱えながら出産したために体調を崩した経験を持つ看護師サンガーは母体保護の観点から女性の自己決定による産児調節を主張した。そのためには特に移民の多い貧困地域の女性が性についての正しい知識を獲得することが不可欠と考え、1913年以降、新聞やパンフレットの配布を通じて、性、避妊に関する啓発活動を展開していた。1914年に猥褻物を配布した罪により訴追されたためイギリスに亡命したが、1915年春に夫(後に離婚)のウィリアム・サンガーが猥褻物配布に関与した罪で逮捕されていた。ケラーの『コール』紙のコメントは裁判のためM.サンガーがアメリカに戻ってきた時期に掲載されている。

 少し、産児調節運動の思想背景を明らかにしておこう。その思想は19世紀の新マルサス主義に源流を持つ。 T.E.マルサス(1766-1834)はイギリスの経済学者であり、『人口論』の著者だった。『人口論』の中でマルサスは富の増加が人口の増加に追いついておらず、救貧制度の改善、慈善事業だけでは貧困問題は解決できないと警鐘を鳴らした。マルサス主義による解決策は道徳的な人口抑制だったが、新マルサス主義は産児制限による人口抑制を主張し、イギリスでは穏健な社会民主主義者たちから支持された。社会民主主義者たちは十分な収入を持たない労働者階級の家庭が多産であれば、適切な教育やケアを行うことができなくなり、貧困が再生産されてしまうことを危惧したのである。

 一方、都市の衛生学者たちにとっても、貧困状態にある都市の労働者階級の多産は危機と映った。栄養状態の悪化、劣悪な衛生環境による感染症の蔓延にさらされた子どもは発育、健康が不良となり、優秀な労働力になることもできないため、貧困から抜け出すことができなくなると考えられたからである。新マルサス主義と公衆衛生改革運動が融合し、20世紀初頭のヨーロッパでは、社会衛生学という分野が誕生した。質のよい優秀な労働力を確保するために、衛生ん環境の改善、疾患の予防を行う学問分野だった。

 問題は予防する疾患の範囲だった。栄養状態の改善、感染症の予防が中心議題だった19世紀中葉ならば、
倫理的に問題になるような取り組みはない。生殖について対応する範囲は性感染症に限定されるだろう。しかし、遺伝に対する関心が高まった20世紀初頭になると、状況は変化した。それまで後天的とされていた疾患が遺伝的と見なされるようになり、心身の遺伝的疾患も予防の対象に含まれることになった。ここに社会衛生学と優生学が共闘できる余地が生まれたのである。

 サンガーの産児調節運動に理論的な影響を与えたH.エリス(1859-1939)はイギリスの性の心理学者だった。エリス自身は男性だったが、生殖の管理には男性のみならず女性も関与すべきことを提唱し、同時代の婦人運動家から支持されていた。イギリス亡命中のサンガーはエリスから優生学と融合した社会衛生学について教えを受けた。そして、アメリカへの帰国後、産児制限診療所を設立し、何度も投獄をされながら、女性の性の知識、避妊具の普及活動を推進することになった。

 もっともサンガーの産児調節運動は若干アメリカ流に加工されていた。ニューヨークの貧困地域には、低所得の移民が多数移住していた。移民家庭は低収入にも関わらず、多産であり、子どもの栄養状態が危ぶまれていた。衛生環境も悪く、母親も働かなければならなかったため、十分な養育が行えない状況にあった。児童労働は当然のように行われ、工場主は人手を確保するために時に多産を奨励した。このような状況では移民たちは貧困から抜け出すことができないというのが、地域看護師サンガーの見立てだった。また、女性が性の知識を持たないために早産であること、安全とは言えない堕胎が広く行われていることも母体保護の観点から不安の種だっため、性教育と安全な避妊法の普及が重視された。

 一方、サンガーが普及した性と避妊の知識の中には優生学が含まれていた。〈精神薄弱者〉を社会の〈荷物〉〈脅威〉と見る人種改良学の影響を強く受けたサンガーは〈精神薄弱者〉の出生を特に忌み嫌った。1922年に出版された主著『文明の中枢』では、〈精神薄弱者〉のために費やされている予算は子どもを持つ女性のために費やされるべきだと主張している。ただし、サンガー自身はケラーとは異なり、現に生きている〈精神薄弱者〉の消極的安楽死を支持した訳ではない。避妊具の利用や断種手術の実施を主張したのは、堕胎や安楽死が実施されるのを防ぐためという側面もある。そういう意味でケラーの主張はサンガーの主張よりもさらに踏み込んでいたと言えるだろう。

 1910年代の段階ではサンガーとケラーはいずれもニューヨークのアメリカ社会党を拠点に活動していた。また、同時期のアメリカ社会党にはやはりニューヨークの貧困地域で地域看護事業を設立に尽力したリリアン・ウォルド(1867-1940)も参加していた。ウォルドはケラーと同様、〈黒いコウノトリ〉事件において医学的見地からの消極的安楽死を支持している。

 サンガーとウォルド。ニューヨークの貧困地域で地域看護、公衆衛生活動から出発した2人の婦人運動家は医療に対する絶大な信頼感を有していた。しかし、1910年代はまさに医療に優生学が溶けこみつつある時代だった。当然のことながら、両者は特に優生学と距離の近い婦人運動家だった。そして、多くの関連著作で簡潔にしか触れられていないが、ケラーは産児制限運動の熱心な支持者だった。

 ケラーの医療および優生学に対する立場は、 地域看護を拠点とした婦人活動家たちの影響を強く受けていたと考えていいだろう。

【参考】
Nightingale,F,1859,Notes on Nursing:What it is and What it is not,London, Harrison, 59, Pall Mall, bookseller to the Queen(=1998,小林 章夫・竹内 喜訳,『看護覚え書 対訳』,うぶすな書院)
Keller,Helen,1915,Birth Control,The New York Call,November 26
Bell,A.G.,1888, Memoir upon the formation of a deaf variety of the human race
Sanger,M,1922,The Pivot of Civilization,New York,Brentano's(=1923,石本 静枝訳,『文明の中枢』,岩波書店)
Chesler,E.,1992,Woman of valor:Margaret Sanger and the birth control movement in America,New York,Simon & Schuster(=2003,早川 敦子監訳,性と健康を考える女性専門家の会監修,『マーガレット・サンガー 嵐を駆け抜けた女性』,日本評論社)
Wold,L.D.,1915, The House on Henry Street, memoir, H. Holt and company(=2004,阿部 里美,『ヘンリー・ストリートの家 ―リリアン・ウォルド地域看護の母自伝』,日本看護協会出版会)

【関連記事】
監禁する優生学から矯正する優生学へ モンテッソーリ教育の知の体系 
http://uramonken.at.webry.info/201309/article_1.html

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
【間奏】ヘレン・ケラーと〈黒いコウノトリ〉A 衛生、産児調節、優生学 グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる