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劇場アプローチにおいて重要な論者としては、他にフランスの文化人類学者ジョルジュ・バランディエがいる。劇場支配性というテーマに取り組み、民主主義もまた劇場支配の一形態であることを示した人物だ。しかし、バランディエについては、すでにこのブログで何度か取り上げているので、今回は割愛したい。 長い間に渡って、劇場アプローチの古典的名著を紹介してきた。しかし、そろそろ自らが劇場アプローチを使ってどのように社会を眺めていくのかを明らかにしなければならない。そこで、今回からは先行理論も踏まえたこうもり流の劇場アプローチのあり方について、手の内を明かしていきたいと思う。 社会の中で劇場アプローチが扱うのは大きく分けて4つの空間に分けられる。 @政府および政治の<劇場> A市民活動の<劇場> B訓育,審査の<劇場> Cコミュニケーションの<劇場> これまでの先行研究に照らし合わせてみると、@Aはプラトン,バランディエらの考察に見られたような劇場支配性の検討ということになるだろう。Bは教育,試験などの場面で発生する<劇場>空間であり、Cはゴッフマン,ホックシールドなどが扱う日常コミュニケーション,接客などの<劇場>だ。@〜Cについて考察の範囲を示しておく。 @政府および政治の<劇場>において重要なのは、大きく分けて2つある。1つは式典,議会など政治において重要な<劇場>に関するものであり、もう1つは議会において繰り広げられる様々な印象操作である。 まずは式典について考えていこう。式典とは「人間が行う、一定の形式、ルールに基づいて行う、日常生活での行為とは異なる特別な行為」のことを指す。儀式も同じなのだが、宗教的な色彩が式典とは強い点が異なる。そして、日本の政治における皇室,政治家にとって重要な役割の1つが、式典ということになるだろう。皇室の場合は若干神道色の強い宗教的儀式にも参加することがある。儀式ないしは式典は国家成立以来、ほとんどの政府において行われてきた。儒教やキリスト教を国教とする国家では、宗教的儀式が多く宮中に取り入れられたし、近代国家においてもできるだけ宗教色を排した式典はなくなることがなかった。見方によってはこれほどの税金の無駄遣いはないだろう。しかし、財政再建の議論において、式典を全て廃止せよという議論が出されたことはついぞない。天皇の国事行為というのも考えてみると不思議だ。式典だけでなく、内閣総理大臣および最高裁判所長官の任命、憲法改正,法律,政令,条約の公布、国会の召集,衆議院解散の公示などが国事行為の範疇には含められている。天皇にはじっさいの決定権がないにも関わらずである。政体が変わり宗教色がなくされても、政府から式典がなくなることはないし、姿を変えて式典は生き残っていく。この謎について考えていくことも<劇場>アプローチの1つの役割だろう。 次に議会についても同様のことが言える。そもそも、議会制民主主義において話し合いによって物事が解決したことなどかつてあっただろうか。少なくとも日本に関して言えば、ほとんどの場合は根回しと多数派工作によって決定されることが多かったように思う。また、表面的には政党や内閣によって提出された法案だが、じっさいには官庁の意向によって提出された法案というのもあっただろう。しかし、そのようないきさつがあったとしても、議会制民主主義を標榜する国家では、少なくとも議会で審議されあるいは多数決を経て可決した法でなければ、正式な法律とは見なされない。いや、じっさいには独裁政治が行われている場合でも、人民代表会議,大政翼賛会などは設けられており、ここで決定されたことが政府の基本的な方針として実行に移されることになる。式典と同様、話し合いの<劇場>もまた、どんなに形骸化していても国家にはなくてはならない<劇場>なのである。 さらに外交の場合についても同じことが言える。外交上の決定は多くの場合、各国の外交官同士の駆け引きによって決定されていくのだが、その駆け引きの様子が表舞台に公開されることは滅多にない。正式な決定はあくまで首脳会議の場でなされることになる。国連総会もまた例外ではないだろう。 民主主義社会においては話し合いによる問題の解決が理念上不可欠なのだが、じっさいの利害をめぐる対立においては、話し合いによる理性的な解決はほぼ望むことができない。従って、表面的には、正式の話し合いの<劇場>が創り出され、駆け引きや権力闘争はできるだけ正式の場では不可視化されることになる。 ただし、話し合いの<劇場>には、もう1つの要素がある。君主制において、話し合いの<劇場>は、君主(国王や皇帝)の支持を取りつけることに大きな意義があった。しかし、民主制においては、支持を取りつけなければならない相手は国民である。そのため、政党の議会における権力闘争は、国民に対する印象操作という形で行われる。そこでは、自らの政党のイメージをよくし、他の政党のイメージを悪くするための演説や質問が日夜繰り広げられることになるだろう。また、与党の場合であれば、自らの推進したい政策を実現するために情報操作を行うこともあるだろう。 戦争時におけるマスメディアを利用したアメリカのプロパガンダ戦略はあまりにも有名である。国民に対する印象操作は政治家にとって、なくてはならない仕事のひとつである。 こうして見ていくと、Aの市民活動の<劇場>も@と連動していることが分かる。市民活動においては、議会とは異なる独自の<劇場>空間が作り出される。政治集会,シンポジウムなどがそれに該当する。あるいは、書籍,テレビ,インターネットなどもマスメディアも有効に活用される。市民団体はこれらの<劇場>を最大限に利用して、自らの欲求,主張,支援および政策に関する提言を団体外の市民および政府に発信していく。もちろん、これらの市民団体も政府に対して働きかけを行う際には政党の陳情窓口,省庁,特定の政治家などに対してロビー活動を行うはずである。しかし、ロビー活動はできるだけ水面下で行われ、表面的には<劇場>によって社会に対して情報発信を行うという働きかけが行われる。 この点において、障害者団体(親の会も含む)も例外ではない。<劇場>においては当事者および家族の困難とサクセス・ストーリー,体験談が語られ、一方で専門家による支援科学的な事例検討や統計が紹介され、社会に対するアピールが行われることになるだろう。ただし、そこで繰り広げられる言説は必ずしも百家争鳴的ではなく、ある程度その団体の方針に沿った形で行われることになる。印象戦略的にはその団体が一枚岩ではないということが伝わってしまうと、その団体の社会的イメージは悪化してしまうからである。また、できるだけ多くの人が同じニーズを持っているということが伝わるため、集会およびシンポジウムはできるだけ規模が大きいことが期待される。時には参加者の人数が水増しされるような不正が起こるほど、主催団体は規模の大きさを重視する。市民団体の<劇場>にも演出と印象操作は欠かせない。 Bの訓育,審査の劇場に目を転じてみよう。ここで言う訓育とは教育,職業訓練,療法のような生活に必要なことを習得すること,社会に従順な身体を作り上げることを目標にした営みのことを指す。それに対して、審査とは訓育を行うために必要な情報を引き出すこと,訓育を受けるにふさわしい資質を持っているかを判定すること,訓育の成果が上がっているか否かを判定することを目的に行われる観察のことを指す。具体的には試験,面接などが審査に該当する。 訓育と審査において、支援者は支援の対象者に対して与える情報を管理する。例えば、訓育においては教育的効果を高めるために意図的に課題の手がかりを与えないようにすることがある。授業においては、学校のテキストを通じて課題は分かるように配慮されるが、授業の展開までは教えない。審査においては、例えばテストでは他のテキスト(教材や辞書)を参照せずに課題を達成することが求められるだろう。さらに面接や性格テストにおいては、面接官が何を観察しようとしているのか,何を測定しているのかさえ被験者には伏せられることになるだろう。 また、訓練と審査の効果を高めるためには、役者の統制,シナリオ作り,劇場が欠かせない。役者とは学校であれば教員,審査であれば面接官が該当する。例えば、海外では教員養成講座における演劇の履修は必須であるし、心理職や福祉職の資格カリキュラムでは支援の対象者に不安を与えないための面接技法を身につけることが必須とされる。これらの技法の習得を通じて、支援職にある者は役者としての適切な立ち振る舞いを作り上げられていくことになる。当然、役者たちは資格過程において専門家によって作成された支援の目的,展開についてのシナリオ(模範例)を与えられ、それに基づいて教育されていくことになる。ある程度キャリアが身についてくれば、自らシナリオを作成することもできるようになるだろう。 そして、訓育と審査は専用の劇場空間において実行される。訓育であれば、教育者(役者)が正面に立ち、生徒たちがその姿を見ながら学んでいく劇場型授業が展開されることになるだろう。劇場型授業は閉ざされた空間で時間を細かく分割して実施されることになる。生徒たちは年齢,性別,学習到達度,特性,学習の目的などによって分割,整理され、できるだけ同一的な集団を形成することによって、円滑な訓育がなされるように配慮される。審査もまた、時間と空間を細かく分割された閉ざされた環境の中で実施されることになるだろう。 目的を遂行するためにどのような役者の育成,シナリオ作り,劇場の設定が行われているのかを解明していくことが、B訓育と審査の<劇場>の重要な役割となる。応用すれば、障害者支援プログラムの解明にも活用することが可能である。 そして、Cのコミュニケーションの劇場においては、実生活において繰り広げられるコミュニケーション活動の中にある演技的な行為を解明していくことに焦点が与えられる。その際、アーヴィング・ゴッフマンのように立ち振る舞いに注目して考察を進めていくアプローチとアリーRホックシールドのように感情に注目して考察していくアプローチが考えられる。特に女性,「少数民族」,障害者のように何らかの支配的な価値感への従属を強要されることの多い人々,不利益が集中しやすい人々の立ち振る舞いと感情管理を見ていくことには大きな意味があると感じている。 その際、これらの人々が採る戦略としては同化戦略と異化戦略の2つがあることを示してきた。同化戦略においては社会的に好ましいとされる立ち振る舞い,感情の表出が行われ、好ましくないとされる立ち振る舞い,感情はカモフラージュされる。その逆に異化戦略では、属性に基づいて形成された集団の中で好ましいとされる立ち振る舞い,感情の表出が行われ、社会の主流的な文化に対抗するという戦略が採られることになる。しかし、同化戦略も異文化戦略も集団同一的な文化観を前提にしており、集団主義的であるという点については、大きな違いはない。 そういう意味ではどちらも抑圧的であるという点は忘れてはならないだろう。 こうして見ると、一言で劇場アプローチといってもその射程範囲は広い。無理やり分類するとすれば、@Aが民主主義社会における公共的な活動に焦点を当てた分野であり、Bは人々が演技的な関係を身につけるために必要なスキルを習得するための<劇場>の考察であり、Cはじっさいに人々が繰り広げられるコミュニケーション行為の考察ということになる。ある意味では人間社会の営みの全てをある側面から考察していくアプローチと言うことができるだろう。 今後、自分の中でも議論を深めていきたいと思う。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
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| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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ぶじこれきにん 2009/11/09 13:05 |
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ぶじこれjきにん 2009/11/10 10:23 |
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ぶじこれきにん 2009/11/10 10:39 |
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ぶじこれきにん 2009/11/10 10:49 |
過分な評価でござんす。今後この視点を利用して人間社会の解明をしてみたいと思います。ではでは |
こうもり 2009/11/12 20:06 |
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ぶじこれきにん 2009/11/17 10:54 |
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ぶじこれきにん 2009/11/17 12:01 |
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ぶじこれきにん 2009/11/17 12:30 |
支援者が当事者の発言を聞く場合には、あらかじめ以下のような前提があるように思えます。 |
こうもり 2009/11/17 19:35 |
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