|
今まで孔子,プラトンと古代の歴史的人物を取り上げていたので、ここでいきなり20世紀の社会学者ゴッフマン(アーヴィング・ゴッフマン)の話を持ってくるのは唐突と思われるかもしれない。 また、同じ劇場や演技というテーマを扱っていても孔子やプラトンとゴッフマンではその立ち位置が異なっている。孔子やプラトンは言うなれば社会をよくするために演技や劇場を有効に活用できることを説いたのだが、ゴッフマンはそれによって社会をよくしようなどと考えた訳ではない。彼はあくまで微視社会学の立場から人々のコミュニケーション空間を観察し、分析を行っただけにすぎない。その逆にコミュニケーションの中に見られる演技性の欺瞞を徹底的に暴きだそうとした訳でもない。あくまで、人々の相互行為の観察を通じて、その儀礼的要素を明らかにすることこそがゴッフマンの仕事であった。 そこでゴッフマンが発見した事実だけを語るならば、比較的簡単である。竹中均『自閉症の社会学 もう1つのコミュニケーション論』(世界思想社)でも要約されているように「嘘だけではなく、誠実さにも演技が必要される」ということに尽きる。例えば、冠婚葬祭において場に応じた服装や表情,立ち振る舞いを行うこと、愛情を伝えるために抱擁やキスを行うこと、相手に対する敬意を示すために自らはへりくだったり相手に譲るような態度を取ることも演技である。ゴッフマンはそれが社会性として称揚されるべきことだとも、欺瞞的であると非難することもなく、観察し描写を続けた。 しかし、今回のテーマで特に重視するのはそこではない。ゴッフマンの研究のもう1つの業績はそれまでアメリカではあまり取り扱われることのなかった逸脱者(例えば、障害者,犯罪者など)のコミュニケーション行為にも目を向けたことにある。『スティグマの社会学――烙印を押されたアイデンティティ』(せりか書房, 1970年)においては障害や犯罪歴などをカモフラージュしながら生きている逸脱者,『アサイラム――施設被収容者の日常世界』(誠信書房, 1984年)では精神病院に収容された障害者たちの施設内での適応戦略を描き続けた。 もちろん、障害関係者は障害者を逸脱者とする観点には眉をひそめるに違いない。いったい何十年前の話を蒸し返しているのだろうと思われた関係者もいるのではないだろうか?また、アメリカの障害支援者の中にはゴッフマンの意図を無視して、逸脱者である障害者が普通の人々と同じような言動や立ち振る舞いを行うように支援することを重視するグループがあり、彼らは当事者から障害者としての痕跡(スティグマ)を取り除こうとした(例えば、肢体不自由者に車イスの利用を禁止し、通常の人々と同じ歩行をするように訓練する。ろう者の手話を禁止し口話法と読唇術を教える,ダウン症の人々に美容整形を求めるなど)。そういう観点から見るとゴッフマンの研究は障害者に対してひどく差別的であるようにも見えてくる。 しかし、ゴッフマンの意図は支援科学者が考えるほど単純ではない。例えば、『アサイラム』は全制施設の収容された精神障害者の管理術について述べているように思われがちだが、じっさいには精神障害者が施設や施設の職員に対して行う適応戦略についても非常にくわしく言及している。施設収容者たちの適応線戦略を問題行動とは捉えず、序文ではこれらの適応戦略の見事さに驚嘆さえ表している。むしろ支援科学の徒ではないだけにゴッフマンの障害者を観察する目は支援の尺度には毒されていないと言えるだろう。障害者が異常者と見なされていた時代にあって、彼は障害者が極めて計算された高度な適応戦略を駆使していることを見抜いていた。 また、障害者の逸脱者という扱いにしても、倫理的な論点と事実的な論点を混同してはならない。例えば、「スティグマの社会学」では、障害をカモフラージュしながらコミュニケーション空間に参加している障害者(精神,知的,肢体不自由,盲など)の適応戦略を多数例示しているが、その時代にこれらの障害者が障害をカモフラージュしながら生きていたこと自体は客観的事実である。また、現代にあっても精神障害,軽度知的障害,発達障害などの分野には障害をカモフラージュしながら生きている当事者が障害をオープンにしている当事者よりもはるかに多いことは残念ながら事実である。その観点から見れば、ゴッフマンの分析はグレーゾーンの障害者について言えば、今なお意義を失っていないと言ってもいいだろう。 では、特に今回のテーマにおいて重要な『スティグマの社会学』に登場するパッシング(越境)を取り上げてみよう。越境とは障害者が障害のないとされる人々の生活空間で生きていくために仮面をかぶって生きていくことを言う。その際、パッシングした当事者は例えば自助グループなどで仲間の当事者に見せる顔とは別の顔を見せるようになる。例えば、自助グループでは物分りもよく饒舌にしゃべる当事者が、障害を隠しながら働いている職場ではほとんど発言もせず感情を表に出さなくなる,障害をうまくカモフラージュできていない当事者をめざとく見つけ不快感を覚えるなどである。障害をカモフラージュする当事者たちは巧みな自己の印象操作を行っていること,他者の目を意識できないどころか、多くの人が障害者に対して嫌悪感を持っており障害を知られることによって迫害されるリスクが高まることを認識している。障害者たちがそれ以外の人々とのコミュニケーション空間に顔を見せる時はは何らかの仮面をかぶっており、それを観察しただけでは障害者像を明らかにすることはできないということを発見したのもゴッフマンの功績である。障害者は社会という劇場の中で仮面をかぶって生きていくことができないのではなく、 立派に仮面をかぶった演じ手として参加しているのである。 ただし、この努力は水の中ではもがき続けていなければ沈んでしまう人が必死にもがき続けなければおぼれてしまうように、極めて悲壮感が漂うものになりがちだ。また、自分の障害者としての痕跡を見せたら一巻の終わりだという前提で行われているため、どうしても自己否定的な努力にならざるを得ない。障害は文化だという言説がありながら、このような適応戦略が当事者の間で誇らしげに語られていないのも、この障害に対する否定性が一因なのではないだろうか。 ともあれ、ゴッフマンの『スティグマの社会学』が発達障害者の体験世界を知る上でも、貴重な文献であることは確かである。この本を読んでから、わたしも自閉当事者の体験記(特に中途診断者)を読む目はだいぶ変わったと思う。少なくとも、下手に「自閉症あるいは発達障害とはかくかくしかじかの特性を持った障害だ」と簡単に決めつけてかかる支援書よりはよほど上質と言えるだろう。パッシングをする障害者は社会の仲間ではないが、少なくとも社会という劇場の中の構成員なのである。 (次回、「ホックシールド 立ち振る舞いから感情へ」) |
| << 前記事(2009/06/08) | ブログのトップへ | 後記事(2009/06/20) >> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
|
ぶじこれきにん 2009/06/16 20:07 |
いや〜、ゴッフマンを読んだ時は本当に驚かされました。多くの自閉当事者の手記が語っていた適応戦略もこの筋で読めば非常に分かりやすくなります。 |
こうもり 2009/06/17 21:39 |
| << 前記事(2009/06/08) | ブログのトップへ | 後記事(2009/06/20) >> |