グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論

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zoom RSS 【第2空間】当事者の語りは可能か(5) 現在から過去を記述することの困難性A

<<   作成日時 : 2006/04/14 13:17   >>

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この問題はフロイトの観点から考察していくこともできる。しかし、フロイトについては理解できていないことがあまりにも多すぎるので、やはり予定通りニーチェ(1844〜1900)を材料にこの問題を考えていこう。わたしにとっては1番始めに出会った哲学者ということになる。ここで問題になるのはある行為に対して説明された意図や目的についてである。果たして、行為の後に説明のされた意図や動機は妥当性を持つのか?これがニーチェの問題提起である。今わたしが考えをめぐらせているテーマに照準を当てるならば、以下に述べることが問題になるだろう。自閉当事者の手記の中にも過去になした行為についての理由,動機,目的は多く記述され、それが自閉ではない人が自閉当事者の行動を理解するための手がかりとして利用されている。しかし、過去の行為に対して当事者が後から説明した動機,理由,目的が果たして妥当性を持つのか?

ニーチェは『善悪の彼岸』という著作において、ニーチェは次のような前提を紹介する。

意図を行為の由来と来歴とみなすという、こういう先入観のもとに、ほとんど最近に至るまで地上では賞賛や非難や裁きがまた哲学的思考さえもが道徳的に行われてきた。

やや簡略化すれば、道徳的な評価あるいは裁判は、ある人の行為はその人の意図に基づいていて行われていると述べていることになる。別の言い方をすれば意図→行為説という前提に基づいて道徳的評価,裁判は行われていると言ってもよい。責任という発想もこの前提から生まれてくるものだろう。そう断った上でニーチェは意図→行為説を斥ける。

これまでの意味における道徳、つまり意図−道徳は1つの先入観であり、おそらく性急な先走りであって、いわば占星術や錬金術の段階のものであるが、ともかく超克されねばならない何ものかである。

意図−道徳という部分は意図−行為と置き換えても意味は通じるだろう。そして、ニーチェは意図−道徳という図式を先入観,先走りとして否定するのである。しかし、わたしたちが自分が行ったある行為に対して意図や目的のようなものを後で頭に思い描くことはある。それをニーチェはどのようなものと捉えているのだろうか?

どんな行為もそれが遂行されている間にわれわれがそれについて持つ色あせた意識象とは無限に異なっている。また、行為は行為がなされる前に頭に浮かんでいる意識像とも異なっている。けっきょく、たどられる道の無数の部分は見えないのであり、目的などというものは現実の結果の一小部分に過ぎない。目的は記号であって、それ以上にものではない。信号なのだ。普通ならば複写が原型の後に来るが、ここでは一種の複写が原型に先行するのだ

かなり、難解な文章なので、今のテーマに関係のある要旨だけをかいつまんで紹介しよう。

@わたしたちが行為を行う前や行っている間に思い描く意識象(目的や動機)はじっさいの行為とは全く異なっている。

Aある行為の動機や目的は無数に存在するが、行為を行った本人もその全てを把握することができず、それらの内の一部を断片的にしか説明することができない。

B意図や目的は複写された過去以外の何物でもなく、わたしたちが行ってしまった行為を自分自身に対して理解可能なものにするために後から作り出された解釈に過ぎない。

これらをさらに要約するとこうなるだろう。わたしたちは自分自身の過去の行為の目的や動機を説明することはできず、説明された動機や理由は後から作り出された物語に過ぎない、と。

そして、自閉当事者が過去の行為に対して理由や動機を説明する場合もこの限界を乗り越えることはできないと、わたしも考えている。特に自らの障害を自覚した自閉当事者が自己認識する以前の行為について語る時、その説明には自己認識した後に得た知識,解釈が入り込むことは避けられないだろう。当事者の語りの活用法の1つとして、これまで障害について研究された内容が妥当であるかどうかを当事者の語りと比較して検証するというものがあるが、これも自己認識後の当事者の語りから判断するのは難しい。その当事者の説明が既に紹介されている自閉症研究の成果の影響を受けてしまっている可能性があるからである。特に複数の当事者が同じ情報源に基づいて障害を理解している場合、説明される内容も非常に類似したものになっていくだろう。できるだけ複数の当事者の語りを聞くことによって信憑性を高めていくという戦略もここでは通用しない。例えば、狐憑きは狐憑きが信仰されている社会ではよく起こるように、タイムスリップ,フラッシュバックなどもそういう体験が起こりうると信じている当事者の間ではよく発生することになるだろう(誤解がないように言っておくと、これはその当事者が嘘をついているという意味ではありません。ただし、これらの現象が何の文化的背景もなく起こることはないと思います)。


そして、これはニーチェの解釈からは離れるのだが、おそらく他者が自分の意図や目的を正確に判断することもまた不可能であろう。他者の心の状態に対する解釈は常に推測の域を出るものではないからである。もちろん、人文科学では他者の行為の意図や目的などを解釈するのは1つの研究分野となりうるのだが、自他を含めて心の記述には正しさを決定する客観的な
尺度は存在しない。解釈された事柄を本人がそうではないと主張する限り、その真偽を判断することはわたしたちには不可能である。

もちろん、ニーチェの説明も1つの解釈に過ぎないと逃げることはできる。しかし、その場合でも意図や目的の説明に対する妥当性は証明できないだろう。自らがライフストーリーを書く時、わたしはいつもこの問題と格闘する。過去の行為について意図や動機を説明する時、過去の時点ではなかった解釈を持ち込んでしまってはいないだろうか、と。

ライフ・ストーリーの問題はこれぐらいにしておこう。次回はカール・ポパーを材料にして、感覚過敏の語りについて考えていこう。ヒュームやニーチェの議論もここでは問題にされることになる。

【補足】

・ここまでの参考文献は笹澤豊『小説倫理学講義』です。
・ポパーを扱った後、ちょっと番外篇で「当事者が定型発達者について語ることは可能か」ということもテーマにしてみたいと思います。

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
そう言えば、私の場合、ライフストーリーを語るときにその時の心情を語る事はほとんど無い事に気付きました。
私の場合、単なる事実の羅列が多いです。
その代わり、こうすれば良いと思う改善策はたくさん語ります。
当事者のための活動に際しては、これでいいのではないかと思っています。
田舎猫
2006/04/15 02:16
田舎猫さん:

これもまた面白い問題です。

ニーチェ的空間で語るならば記憶していることの事実の羅列を続けるというのも1つの打開策です。

一方、わたしなどはこんなことも気にしてしまったりするのでした。子どもの頃記述に関して言えば、事実と判断(解釈),主観と客観,理性と感情と言った記述の区別を少なくとも子どもの頃のわたしはしていなかったと記憶しています。気にするようになったのは、大学に入って大学教員から「事実と解釈の区別をはっきりさせるように」と指導を受けてからです。

そういう意味では認識の区別(事実と判断など)を子ども時代の記述に持ち込むのも、ニーチェ的観点からみれば、現在から作り出した複写なのかもしれません。

当事者の手記なんかを読んでいて考えてしまうのは、「子どもの頃はそこまで理路整然とは物事を考えなかっただろう」という記述が結構散見することです。これは発達障害者に限ったことではないのですが、子ども時代の記述というのは難しいです。
こうもり
2006/04/15 09:59
>その代わり、こうすれば良いと思う改善策はたくさん語ります。

近年刊行された当事者の出版物を見るとその傾向も強くなっている印象を受けます。初期のドナ・ウィリアムズ,グニラ・ガ−ラントらのライフ・ストリーは心身世界の記述中心ですが、リアン・ウィリー・ホリディの手記では具体的支援の提案の比重が増えています。当事者が語れるのはあくまで絶え間ない現在であるという意味ではこれはあながち間違ってはいないと思います。

一方で、一部の支援者,出版者が当事者から支援に「即役に立つ情報」だけを切り取って聞き出すことに血眼を挙げ、当事者と全面的に向き合わないことがあるという点については若干の危惧も覚えています。わたし自身も、初対面の出版者やシンポジウムの司会進行者から露骨に「支援者に即役に立つ話だけをしてくれ」とか言われたことあるもんな。。。そういうことを言ってきた関係者とはその後は一切協力をしないということで、対応はしておりますが。

第1空間では基本的に田舎猫さんがおっしゃる通りだと思います。
こうもり
2006/04/15 10:18
私も感じる所があるのですが、最近、一部の支援者などから『支援者たちなどにすぐに役に立つ話をして欲しい』と言う傾向があるのではないかと思います。そう感じているのが私だけではなかったんですね。

様々な場所でお話していても三方得でなければ今後のお付き合いをやめるほど感じることがあります。※この三方得とは1つはダンナを含む家族や友人など、2つは主催者など、3つ目は聴きに来たり見に来たりなどを指します。

私としては三方得であれば全然精神的&体力的に疲れは感じません。バタンキューになったとしても気持ちがいいんですよね。

ちょっと横道それたコメントですみません。
Rosamonde
2006/04/26 13:27
▼Rosamondeさん

障害者支援の世界にもお手軽文化が侵食してきたかという感じです。そんなことをしていると、当事者から聞き出せない話が山ほどあるよんというのが、このブログのメッセージかな。

こうもり
2006/04/26 22:45

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