グレーゾーン学とアブノーマライゼーション論

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zoom RSS (おまけ2)地球環境問題と障害者(6) 「人間中心主義の克服」の欺瞞.

<<   作成日時 : 2005/06/01 12:56   >>

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「環境問題」で掲げられている「世代間倫理」という理念が取り組みの実態とはかけ離れており、実際には今生きている世代の経済的事情が最も優先されているのかもしれない。これが、前回のコメントでわたしが提示した疑問点だった。そして、世代間倫理以上に今生きている人間の経済的事情をカモフラージュする役割を果たしているのが、「人間中心主義の克服」である。

倫理学における「人間中心主義の克服」は、これまでの倫理学が人間同士の関係だけをテーマにしてきたことを問題にし、生命圏あるいは地球全体を視野に入れた議論を行なうことを提唱する。その中で論者によっては、「人間だけの利害や事情だけを考慮して環境問題のことを考えてはならない」ということが主張される。この議論の中で時として、障害を理由にした人口抑制,産児制限を容認する意見が出される。曰く「それは地球全体のことを考えるとやむを得ないのではないか」「地球全体のことを考えると、人間だけが生命の特権者ではない」「あなたの議論は人間のことだけしか考えられていない」

この議論はしかしながら、非常に大きな欺瞞を抱えたものであると言わざるを得ない。論じたい点はたくさんあるが、ここでは大きく2点に絞って批判的に検討しておこう。

第一に、環境問題において取り組まれるテーマやその取り組みの内容を見る限り、ほとんどの取り組みが人間中心的であると言わざるを得ない。20世紀から21世紀にかけて日本,世界で話題になった環境問題を列挙してみるとそのことがよく分かる。公害,ごみ問題,大気汚染,工業用水による河川の汚染,開発による森林破壊や貴重種の絶滅,フロンガスによるオゾン層の破壊と人体への影響,二酸化炭素の大量排出による地球温暖化.原子力施設の事故による放射能汚染.酸性雨,環境ホルモン。そのほとんどは人間のテクノロジーによって引き起こされた悪影響が人間の社会生活や人体に悪影響を及ぼしており、人間が環境問題に取り組むのはまさに人間が何らかの「被害」を受けた時だけだと言っていい。動物保護はそうではないと考える論者もいるかもしれない。しかし、
保護する対象が人間にとって利益になるか、無害であるか、貴重である場合を除いて保護されないのだから、やはり人間の恣意によって保護されていると言える。そして、地球環境には有害ではなくても人間にとっては害があるとみなされる害虫(ゴキブリ,ハエ,蚊など)やカラスなどは全力で駆除されたり、人間の生活圏から追い出されることになる。さらに言えば、人間の生活に悪影響を及ぼさない環境破壊にはおそらしく無頓着である。

もちろん、そうであってもやはり環境問題への取り組みは必要だと考える人はいるだろうし、わたしもそう思う。しかし、その取り組みはスローガンとは反対に極めて「人間中心主義」である。例えば、環境問題への取り組みの理念の1つに「持続可能な開発」という考え方がある。要するに人間が全く自然を利用せずに生きていくことは不可能であるから、自然が自己再生できる程度に利用していくという話である。これは「人間中心主義の克服論者」からは人間中心的であると批判されるだろうが、極めて今の環境問題への取り組みの本質をついた言葉である。環境問題で目指されているのは人類の存続なのである。地球環境のためだけを考えるのであれば、もしかすると人類が滅びてしまった方がいいという考え方も成り立つのだが、おそらくそこまで視野に入れて、環境問題に取り組んでいる人はあまりいないだろうと思われる。

そして、第二の批判点は世代間倫理とも重なるが、仮に環境のために人口抑制,産児制限が必要だと考えられる場合でも、胎児,障害者,不治の病にかかった老人,開発途上国の人だけを削減の対象にするのはおかしいというものである。仮に減らすとして、平等を重視するならば年齢,性別,障害の有無,国籍,民族,人種などの区別なく減らさなければならないし、地球環境への悪影響を重視するならば先進国で環境に悪影響を与えるテクノロジーを開発したり使用するより生産的な人々から減らしていかなければならないことになる。胎児,障害者,不治の病の老人などが環境に悪影響を与えることはあっても、その量は産業社会,消費社会で現在進行形で活動している人々とは比べ物にならない。

しかし、話は逆になっていて、むしろ先進国では少子化のために生産性の高い子供を増やすことが奨励されている場合が多く、生産性が高くないと見なされる人々を減らすことが声高く叫ばれている。例えば、アメリカの選択的中絶を擁護し、日本の中絶議論にも影響を与えた生命倫理の理論に
パーソン論というのがある。簡単に言えば、胎児でもまだ人格ができていない胎児はまだ人間と見なすことができず、中絶してもよいという話である。ピーター・シンガーというオーストラリアの倫理学者になるとさらに人間であってもチンパンジーより知能が低い人ならば、人間であっても人格があるとは見なされず殺してもいいことになっている。

障害者については既に何度か述べた。ナチス・ドイツによる障害者10万人の安楽死は有名だし、断種や婚姻制限に至っては、ナチスの独走ではなく帝国議会で民主的手続きに従って施行された政策である。ハンス・アスペルガ−が彼が関わっていたASの子供たちの知能が高く、知的障害とは異なることを強調したのも、知的障害者の多くが断種,安楽死の対象になっていたためである。そして、このことは同時に知的障害者を犠牲にした救済方法であったことを記憶に留めておく必要がある。そして、障害者に対する婚姻制限,断種はドイツだけではなく、戦後のヨーロッパ(イギリス,スェ−デンなど)でも幅広く行なわれた。

老人についてはアメリカのハードウィッグという生命倫理学者が唱えた「死の義務」という議論がある。簡単に言えば、治る見込みのない病に冒された老人は後に残される家族の安寧を願い、自らの死を引き受ける義務があるというものである。そして、それを医学や家族が強制的に行なうのではなく、本人に選ばせるというところに大きな特色がある。

以上が、先進国で行なわれることがある人口抑制や産児制限を擁護する議論である。いずれも議論も環境問題は視野に入れておらず、あくまで人間社会の利益のために主張されている。そして、これらの議論は「人間中心主義の克服」どころか、「機能の高い人間中心主義」と言わざるを得ない。そして、これを唱える論者は少なくとも将来不治の病にでもかからない限り、人口抑制の対象にも産児制限の対象にも含まれないのだから、極めて安全なところから自己中心的に発言していると言える。ニーチェは哲学者を「およそ安全なところからしか発言しない」と批判したが、同様の批判がこれらの理論にもあてはまる。

環境問題において人口抑制や産児制限が主張される場合、彼らが考えていることはシンガーやハードウィックが考えていることほどは露骨ではないかもしれない。しかし、なぜ人口抑制,産児制限の対象が胎児,地域的には開発途上国に偏るのかという問題は残る。

人口問題についてまとめておこう。地球環境から見た人口問題の根本は人口が増えすぎていることではなく、人口が増えてもなお、今生きている人々がエネルギー資源を浪費し自然を破壊するような快適な生活を手放さずに増殖していることにあるのだろうと思う。そのことをごまかして、「世代間倫理」や「人間中心主義の脱却」で理論武装して語ることには大きな疑問を感じる。

(次回は、環境ホルモンについて。「発達障害と環境問題の遭遇」)

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